おやすみ兄弟







犬や猫が人間にとっての家族であるかどうかという論議は,人間の側から言えば,いろいろ面倒臭いツッコミも入れられるようだが,動物側から見た場合の「家族」という概念の中に私たちが入っているとすれば,そんなにとんでもない話でもなかったりすると思っている。
主人を亡くした動物の心の傷はいろいろ言われているが,過去経験の違いや個体差もあるし,人間的な意味ではその表現はあっさりしているといってもいいかもしれない場合もあるだろう。
ある日,私が彼のそばに居なくなったとしても,チコはこれまでどおり私の家族の元で生きて行くだろうと思えるものだが,何らかの喪失感として観察される情緒の変化は人間ほど深くないかもしれないと言う人がいてもあえて否定しない。あったとしても猫や猫の感情表現,行動に興味のない人には検知できないものかもしれない。
天邪鬼の私は「この子は私の家族です」という表現の中に,人間並みのものであって欲しい,そういう愛情関係を体現している私はすごいでしょ,そう思ってよ,という欲望を感じると,とたんにきな臭いものを感じてしまうのだが,私の身の回りには「上手く言えないけれど,そうとしか思えない」という単純なものばかりが伝わってくる人達ばかりだ。あえて,人の家族とは違うよね,とか同じだよ,変わらないよ,という意味もないし,それも分かっている。
このエントリのカテゴリにはそんなに深い意味を持ちようもなかったのだが,多分,このチコと末っ子との距離やチコの安心したくつろぎ方に現れているものに,見てしまうもの,ぐらいのものだったかもしれない。あるいは猫から見た「家族」ってなんだろうみたいな。
血が繋がっていようとも愛憎混じり合い,そう呼び合っている人間同士で時には殺し合いもする。家族ってなんだろう,自分でも明確ではないと思っているが,なんとなく,逆にチコに教えてもらっている気もする。とりあえず,生きて行くための偶然と必然が混ざり合った結果,生まれたチームみたいなもので,取り敢えず自分の場合は良いかも。そしてもともとの家族である母親を離れて,チコは様々な運命に翻弄されながらも生き延びて,今ここにいる。私たちと同じチームに。
追記ーそうだ,後,「家族」と呼ぶことに否定的な人は,『去勢したり閉じ込めたり,つないだり,「一方的に慰み者にしている」ものを勝手に家族などと呼ぶこと』に欺瞞を感じられるのだろう。同じものではないが,なんらかの葛藤を持たずして,高らかに家族賛歌のみを歌い上げることへの疑問は,私にもある。生きていることは,葛藤そのものなのだが。だから,私は,そばに置く動物としては,高等動物は人が創りだした上に,長い時間を経た家畜,コンパニオンアニマル以外の野生動物だと,そのあたりが頭をもたげてしまい,彼らを前にすると,非常に居心地が悪くなってしまう。
まあ,ペット動物の拡大による多様性破壊問題を別に置いておくとすると,自分でも勝手なものなのだと思うが。
by complex_cat | 2011-07-24 12:15 | Cat Brother & Sister | Trackback | Comments(2)
主に病的な言葉による「家族」の崩壊を目の当たりにしてる自分にとって、人間の言葉を持たぬ家族、チームの仲間である茶々丸が、何気なく自分の役割を認識して微力ながら崩壊を食い止めようとしてる場面に何度か立ち会っています。
それは、抜群のタイミングで啼いてみる、とか、無防備に眠って見せるとかで、一緒に暮らしてる者のひいき目なのかもしれませんが。
偶然の産物だとしても、それを認識させるあたり、やはり立派に家族、あるいはチームの構成員なのだと思わざるを得ないですねぇ。茶々丸に免じて頑張ろうとか思ってしまいますもの(笑)
それは、抜群のタイミングで啼いてみる、とか、無防備に眠って見せるとかで、一緒に暮らしてる者のひいき目なのかもしれませんが。
偶然の産物だとしても、それを認識させるあたり、やはり立派に家族、あるいはチームの構成員なのだと思わざるを得ないですねぇ。茶々丸に免じて頑張ろうとか思ってしまいますもの(笑)
rieronさん,お話いただいて,とてもありがたい話をいただきまして,感謝します。ここは僕にとって,かけがえのない場であると,見せてくれているのだと思います。それは,小さな表現ですが,家族を救うものだと思います。























































