内功と外功
2008年 07月 03日
黒猫亭さんの結論部分,なるほどです。
「中国武術のロジックで謂うなら、少なくとも外向けには「内功とは気功である」と表現するのが逆説的に最も正しいということになるんでしょうかね。」
ある意味,伝承者においても人の身体はブラックボックスなので,そういう理解で総てを説明した方が,余計なエネルギーを使わずに済むのかもしれませんね。
「おそらく、道教的な世界原理を離れて自然科学的な言葉を用いて教授する武術の門派があるとしても、それはごく最近の傾向でしょう。」
その通りだと思いますが,その最近の情報整理と解析は進んでいると思いますし,体育学院の多くでは武術(うーしゅー)に関する学科も沢山あります。武術や気功を理解するために働く言葉を沢山持っている老師は沢山おられます。道教的な単層的な世界観だけでは,自分の認知も弟子の育成も立ちゆかなくなります。
確かに内功にはテクニックとしての呼吸法や,それに付随する頑強術的な側面があるのですが,武術的な気の運用(武術気功)という部分では,戦闘時における圧倒的なパフォーマンスの確保が目的です。
これもコメントで述べさせていただいたように,内家拳が内向を重んじ外家拳は運動物理的な云々というのは実は,正しくありません。内家外家とは体内の内外ではなくもともと出家しているか,いないかという意味です。
例えば,内家拳の代表格の太極拳ですが,仮想敵は勿論,外家拳です。いわば内家3拳はニューウェイブ武術であったわけです。当時は外家拳がもっとも剛猛な武技だったから。
ここで,外家拳に対して太極拳の持つ内功がアドバンテイジになったわけではありません。なぜなら,外家拳にも内功は存在するから。決定的に勝っていたのは,それが覇道的なシステムではなく,王道的なシステムであったということです(これは長くなりますので少しずつ説明していきます)。そのために,威力を発動するシステムを全く変えてしまったのでして,これは,内功を使ったというよりは,勁道を変えたと考えた方がよいかと思います。勁道を変えるには,別の筋肉の鍛錬とその統合を果たさねばなりません。それが,内功でありますが,外家拳の内功よりも,使うべき筋肉の運用と発動が徹底されておりました。なぜそうする必要があったかというなら,戦闘理論毎,著しく変えてしまったからです。戦闘理論の革命の一つは,相手の動きを制御できて一方的に攻撃できるよう,超接近戦を基本としたことと相手を無力化するための化勁を発勁と同レベルで戦闘理論で扱ったこと。
これは,古式の空手と現在のK-1ぐらいの違いがあるものです。内家3拳(太極拳,形意拳,八卦掌)の共通祖先形質を色濃く持つ現在の武当拳の一派には,陳家の正式継承者も崩される化勁が存在します。
誤解を招くといけないので,補足しますが,K-1が進化しているというわけではありません。あれは武術ではなく,あのルールに特化した格闘技だからです。前提条件が違うので,最適戦闘戦略が異なるという意味です。一方で彼らは,アスリートです。K-1選手は暴漢に脚をナイフで刺されたらコンビニに逃げ込んだりしなければなりません。古式の空手はそういう戦闘も想定しておりまして,ナイフで襲われてもルールが違うと間違っても言えません。ただ,技術的先鋭さという意味では,逆転しております。これは,秘術化して試合やスパーリングを排除したために,古武術の技が形骸化してしまって使い物にならなくなるという事例が生じやすい状況があるからです。バーリトゥードに対応できうる優れた戦闘理論を持つ武技の方が使い物にならなかったりするなどという現象が普通に生じてしまうからです。グレーシーは,もとは柔術という古武術ですが,スパーリングや他流試合などの研鑽を重ねたため,現代格闘技の土俵上での戦闘にも適応できて,劣化を生じてきませんでした。
講演料の札束を数えているような古武術家は,襲われても対応できないでしょうし,ナイフ持った暴漢程度なら,国体クラスのボクサーでなくても,きちっと毎日練習されている方なら,多くの場合は,正面から「はいっ!」と始めれば一瞬のうちに撃破できるでしょう。これは,戦闘体系の問題ではなく個人の武技の優劣の話です。
ただし,「多くの場合」と書かざるを得ないのは,ボクシングもK-1もそれは,そのルールが,相互覇道的拳による戦闘で戦うことを制限しているからです。古式空手で想定されている戦いと戦闘理論は,この覇道的スペクトルよりも王道的スペクトルの成分の方が強いのです。
簡単な例は,空手の標準的な引き手を伴った正拳突きです。これは,正面に立ち,暴露面積を大きくして,顔面もがら空きでしかも引き手も重視するある意味不思議な技です。K-1で使われないことを見ても,普通は自爆技に見えます。しかし,相手の体や腕を受け流しながらトラッピングして崩して引き込むようにして死に体にして,拳をカウンターでぶち込むと想定すれば,完璧な技です。相手は技すら出せない状態に既に置かれていて,引きずり込まれるように崩されてそれに拳が激突するわけです。その場合も急所しか当てない,臍から下もルールの縛りがなければ打てるわけです。
つまり高速の攻撃技であろうが,フェイントであろうが,相手の攻撃の一部を崩してトラッピングを可能とする高度な化勁があれば,偶然性が介入して,素人のラッキーパンチの可能性が入り込む反射神経やコンビネーション技術はいらないのです。打突技が発動するときには,相手は化勁により既に死に体になっている,かわされたり外されることもない。これが王道的拳の基本です。
だから太極拳の拳蹴りは,ほとんどが相手の手足に添って飛んでいきます。その付け根には必ず相手の顔面,首や心臓や金的が存在するから。相手が同様の技を持ってして化勁で流してこない限り,万に一つも外れないと書けば言いすぎですが,目指すものはそういう世界です。押し合いするなら,日本の相撲の方が上じゃんと価値下げされる太極拳の推手が,それなりのレベルの人と手法でやれば,どれだけ実践的で且つ安全な練習方法か分かろうというものです。
独特の勁道を使えるようになると,相手の拳や脚に接触した瞬間,そういった武技を知らない相手に対しては,全ての攻撃に対してカウンターをとることはそんなに難しくはありません。腕を引いて力を溜める必要がないからです。実際こういうテクニックは,インファイトが得意なボクサーなどでもレベルの高い方は使っています。問題は,その自分にとって安全な接触過程をどうやって確保するかということで,そこまでいくと,それが本当のコア技術であったりします。八極で言われる「崩撼突撃」とか,実はそのプロセスに深く関わっています。ただ,これは基本プロセスで,
間合いによる距離的なディフェンスの無効化→相手の拳脚との接触→相手の攻撃及び防御の無効化→致命的な部位への最大威力の打撃
というプロセスを,上級者になると一気に終わらせてしまうので,ただ,突っ込んでいって相手を倒すみたいに思われがちです。格闘ゲームというのは反射神経や指使いの選択の的確さ,速さで競うもので,実際こういう話が想像される余地はありません。武術的な理解においては無理です。だから,ゲームネタの延長でのゲーマーによる八極拳理解は,最初から無理な話です。
幕末無敵を誇った示現流なども,あるアプローチにより,相手が一の太刀を受けた瞬間に相手を無力化するところにその強さのコア部分があるわけで,力任せにおもいっきり飛び込んでいって相手に勝てるなら,技など必要ありませんし,それは剣術ではないわけで,パワーショベルに刀をくくりつけて切り込ませたら勝つぞみたいな話になってしまいます。
「やはり堅い物理的実体同士の激しい衝突力を基本原理に据える外家拳の考え方よりも、応力の伝達原理を精緻に考え抜いた内家拳のほうがコリオグラフィックな意味で実演困難だからだと考えていて、突き抜けたレベルの達人以外には命の遣り取りを含むような戦闘でそこまでの余裕は出ないからだと考えています。」
これは逆でして,命のやりとりを含むために,余裕のない方法(これを相手の攻撃の被爆を一定の確率で想定している拳,覇道的拳と呼びます)では,いつかは殺されることになるので,生き残りたかったら,戦略としては
1)短期的に習得できる戦闘技術
2)どのような攻撃も致命傷になるので,攻撃を受けずに一方的にタコ殴りに出来る戦闘技術
の両方を身につけていくということになると思います。ここで1)をやっていれば生き残れるかと言えば,それは必ずしも真ではないのでして,2)のレベルというか技術体系の開発習得を,平行してやる必要があります。2)の習得は1)の習得と矛盾しないというか,そんなこと言ってられないわけです。同時に,この虫の良いドラえもんのポケットのような戦闘理論を考え出したところに,中国武術の偉大さが有りますが,それは,兵器術を考えれば剣術も同じ発想をしている武技は沢山あります。なぜなら武器術が存在する戦闘では少々の被爆も致命傷になるからです。その技術体系が王道的拳です。ただし,あらゆる武技・武術には,この覇道的・王道的スペクトルが存在します。外家拳の王道的スペクトルが皆無というわけではないのです。また武術家それ自体のレベルにおいても同様です。ただ,門派をあげて,王道的スペクトルを増大させたのが内家3拳だったと思われます。
「太極拳に一番近い武術って何?」と訊かれれば,「柳生心影流などの日本の剣術。」と私は答えます。実際,化勁と思われる技がたくさんあるし,単鞭と猿回(すいません,柳生の技の名前を失念。多分間違ってます)など,理合においていくつかの収斂現象が見られます。
「この開示と秘匿のデリケートなバランスに則ったもの」
中国において文革は様々な影響を落としており,黒猫亭さんが看破されたように内功に関しては,仙道や宗教がらみの部分があって,それが前近代的なものとして,あたかも綺麗に取り払われたようにされている状況なので,余計にややこしいのだと思います。つまりノイズでしかない仙道や宗教的な背景を持った概念が残存しているにもかかわらず,あたかも,そんなものは最初から無かったように伝承され,さらにそれに説明を依存していた部分がコアテクノロジーであるため,捨て去られないということです。純粋バイオメカニクス的な俎にのせる場合全くツールがなかったのです。まさに,DSが出てくる前までは。その意味では私もTAKESANさん同様,高岡氏の功績は大きいと思っています。功罪の罪もありますけど,この辺の認識は,普段のエントリを拝見する限りTAKESANさんに非常に近いと思っております。このように内功的トレーニングシステムは迷信に立脚しているという意味とは少しニュアンスが違い,それに変わる新たな近代科学に乗っ取った説明体系を見つけるに至っていなかったのです。これは,当然内家,外家ともに内包されているものであり,どちらにも外功,内功があります。私は,本格的に少林拳系の外家拳を学んだことがないので,偉そうなことは言えませんが,伝え聞く限りは,立脚地点は神仙と仏の違いはあると思いますがDSに代わるものとしては同じようなものを使っていたと言えると思います。内家拳が外家拳との間に差を産んだものはニューウェイブ的な王道的戦闘理論と勁動の違いです。それは,それだけの違いです。当然,収斂現象として,内家拳的戦闘理論を前提にした武技があれば,それは,内家拳と同様の内功的トレーニングシステムを持っています。八極が内家拳的であるというのは,正にそのところです。ただ,アプローチは全く違います。内功ができていない太極拳修行者が八極を学ぶと,初日に寝込みます。何処が鍛えられておくべきだったか,後で理解できます。
全体,仰有っている意味はよく分かりますが,25年前と違って日本にはかつて無いほどの中国武術の情報が入ってきておりますので,今の時点でこの対比で中国武術をお話しされるのは,認識を後退させる行為だと思いますので,あえて拘ってみました。八極は外家系で外功だけ,内功とは無縁とか,誤った認識を生み出す可能性があります。八極の戦闘理論は独特のもので完全に内家3拳と重なるわけではありませんが,王道的戦略をとる部分で両者は似通っています。
もう一つの面は,在野の拳であった内家3拳の修行者は,多くは農作業などもやらねばなりませんから,外功と内功を別々にやる余裕がないよというところからスタートしているのではと思っています。外家拳は,労働奉仕はあっても修行,即ち練習に時間をかけることが出来ましたので,気功の運用と外功と別々に行うようにカリキュラムに余裕があったと思われますが,太極拳などは,「麦踏みも水源の土木作業だってあるから,時間ねーじゃん。内功・外功,これ一緒にまとめちゃえばよかね?」,という発想が元にあったと聞いております。尊敬する陳家の17世は,病弱な母上を助けるため,働いてばかりおられた逸話が伝わっています。勿論,レフパワーを使って(笑)
最後に「発勁」って,そんなにややこしいものではないですよ。逆に,お尋ねいたしますと瓦数十枚,ブロック2,3個を破壊する空手の威力は,発勁か否かということです。全部が全部そうだというわけではありませんが,寸勁打ちなど難度の高い勁の発動を極真の松井館長はされますよね。日本において発勁が更に混乱もたらしたのは,気と勁をもともと分けてとらえる文化がなかったからです。そして,気を使って説明されることのない力の発動は,それがまさに発勁的な発動であっても,勁という言葉で説明してこなかったが故,価値下げされてしまって更に混乱をもたらしました。日本武術で「気」と呼んでいるものの中では,いわゆる気と勁が混在しています。
日本の空手は本来の戦闘理論とその体系で戦えば,もの凄く強い武技だと思います。もともとが中国武術であり,凝り性の日本人が創意工夫をして進化させてきたものでありますので,弱いはずはないのです。ただ,ルールが有り,例えばK-1ルールでやったら話は違います。空手に抗することの出来る中国武術はそんなに存在しないというのが,わたしの中国武術の師の持論でもありました。
また,八極は回族の武術であったわけですが,その伝統的な医術も八極と切り離せない部分があると思います。壊し屋は治し屋でもあるのです。私の中国武術の師は二人とも,治し屋であり壊し屋でした。
もう少し文章をいじりたいところですが,昨晩は仕事の疲れで熱が出てしまいました。
リンク先は,論客によりもの凄く論議が進むので,着いていくのは大変ですが,あちらの方も参考になったと喜んで下さいました。
自分で書いていて,何となく字の並びに違和感があったのですが,助かりました。
これの目指すところはマススパーでもやると結構実感しますね。間合いの潰し方とか面白い。
示現流は練習風景だけ見ると良く分からないんですが^^;
もっとも、弱い私でも正面からでなければ恐らく国体クラスのボクサーを殺すことは簡単に出来る、ので常在戦場を考え出すとなかなか難しいですが。
常在戦場の実践対応は,武技において常に想定しますが,実際は難しいですね。