なぜ人は食べ物を残してはいけないのか

なぜ人は食べ物を残してはいけないのか_b0060239_22541457.jpg
野外で森林性の野ネズミの台所を子供たちに教えます。
 ドングリなどの食痕はきれいに食べているものが多いように見えますが,実際に食べているのを観察すると,食べかけでぽろっと手から落として,別のものに手を出したりします。
これは,不思議でも何でもなく,ドングリそのものを食べるためではなく内部のニセコナラシギゾウなどの加害昆虫の幼虫の方をターゲットにした採餌であったり,ドングリが有り余る場合,栄養分の高いところだけ口にして,次に手を出すのが胃袋の小さな彼らにとっては最適の栄養摂取戦略であったり,あるいは,そこを移動すべく食いかけを放り出して別のところでまた新たに食べ始めるというのが,天敵をたくさん抱える動物としては当たり前だからであったりします。

追記ー子供たちにこのあたりを教えると,結構びっくりして「ヒメネズミ(アカネズミ),ずるーい」と言います。彼らにとって残飯を放り出すと言うことが「悪」にならない,自分たちだと親に叱られる,なぜか。そのあたりから考えてもらうのが,とても楽しい行為です。


なぜ人は食べ物を残してはいけないのか_b0060239_0292831.jpg
で,こうやって食い散らかしたものは,森林の中で,更にドングリキクイムシや二次加害で堅果内ゴール(虫こぶ)を作る昆虫,さらにはカビ,粘菌などのごちそうになります。彼らの出す残飯は,実質上ゴミにならないのです。都市公園では,まともな消費者は居ませんが、この子供たちに潰されたマテバシイも内部に入り込めてダンゴムシがせっせと食べていました。
なぜ人は食べ物を残してはいけないのか_b0060239_2116475.jpg
人間だけが,食い残しを残飯という無駄なものとして生産してしまう系の中にいます。また,それをすべて自然生態系にぶちまければ,大量の有機物/リン酸汚染にしかならない量の圧倒的な消費を行っています。

 それは都市公園の落ち葉が,腐葉土として利用されず,ゴミとして収集されて更にエネルギーをかけて集められて焼却処分されるという見ているとあほみたいな矛盾とも近いものがあります。エデンを追われた私たちは,増えすぎて,また、部分的に別のシステムの上に乗っており、ゴミを作り出すことしかできない存在になってしまっているわけで,その自覚を持てば,ネズミさんのように食い捨てや過剰生産・廃棄をなるべくしないような自覚を子供の頃から教え込む必要があります。
 
 と,かみ砕いてよく私の野外実習では教えています。実際,日本では江戸時代までは,明確にゴミというようなものは,ほとんど出てなかったと言っても良いでしょう。いや,戦後のなにもない時代も含めて,ほとんどものが,繰り返し使うか,分解してそのまま別のサイクルに乗るようなものとその量であったと思われます。
 今でも郡部に行って古い家など借りると,床下から瓶類が大量に出てきます。ゴミとして出す習慣やシステムがなかったりしていたわけですからそういうこともあり得ます。
 ただ,少なくとも今の私たちは,エデンから切り離されて久しいわけで,なるべく食べ物は残さず食べて,残飯は最小化する,それが,エデン以外で生きることを選んだヒトとしての掟だと思います。唯一のゴミを生み出す生き物として。

追記ー「エデンから切り離された」と書きましたが,そこからは搾取する,そちらへは負荷を与えるという意味でエデンに寄生していると言った方がいいのかもしれません。あまりディープ・エコロジー的な表現になるのは好まないのですが,実際そうなのですから,自覚する必要はあると思います。
 たとえばコンビニの弁当は,すべて農場や管理された工場から生産されたもので作られているわけでなく,その先をたどれば,石油,水や有機物,リン鉱石など過去から現在までの生態系の「あがり」がその元にあります。しかもそれを入手するためにまた生態系への負荷をかけているわけで,人間が手にしているものの内情を,よく勘違いされている方が多いので,注意が必要です。

追記2ーエコロジーブームのはじめの頃,江戸回帰的な本がかなり出ました。私は,他のところにも書きましたが,今の現状で有効な部分は江戸回帰主義からはほとんど得られないと思っています。
 あと,江戸時代は今の時代,ミサイル実験ぶっ放したりするどっかの国よりは,その国の過去生み出された文化には敬意を表するものの,現在進行で考えると,江戸時代(中期以降でしょうか)の方が少なくとも重層的で多様,自由な文化を生んでいるわけで,どっかの国の悲惨な状態に戻れと言っているわけでももちろんありません。江戸の話をしただけで,そういう二重の意味で間違って読みとられることのないように追記します。

補足ーおっと,揶揄ではなく,しっかり統治機構批判のつもりでしたが、こういう記述は誤解を招きますね。「国」と書いたのがいけなかったか。あの統治機構であることの既決として悲惨だという意味で、かの国の国民を揶揄する意図はありません。「国」と書いての批判=レイシズムではないでしょう。いろいろな人が見ていると、勉強になります。誤解を招かないテキストは難しいですね。どの国だって統治機構がまともだったらいろいろなものを生み出す力を,人は持っているでしょう。
 そこに暮らす人たちを同じ人たちと思えば思うほど、理不尽な体制を強いている統治機構に対して怒りがわいてきす。少なくとも、私はそうです。
 ついでに書くと,韓国には研究者の友人が何人かおります。また、私の武術の師の一人も同様です。詳しくかけませんが,彼らの紹介であちらの方にも知り合いがおります。また,私の大学時代のサークルで一番世話になったボスは在日の方で、西も東も分からないところを彼にいろいろ教えられて、そういった偏見自体,持ちようが無い仲間たちとそういう人生を送ってきました。
 あと,飢饉発生状況だけでは分かりませんが,江戸時代もかの国の食料自給率も今の日本よりは上ですね。食料自給率的な者で考えると,世界的な食料危機に陥った時の,悲惨な国と呼ぶべき国は日本です。

追記3ーこういう地味なエントリなのに,アクセスが増えておりまして,コメントを別のゲストルームでいただいた方々に,感謝です。もう少し早くエントリしたかったのですが,良い画像を探す時間が無く,結局,過去の画を使い回してしまいました。1枚目などへたれ携帯で撮ったメモ画でして,写真ブログとしても力を入れている身としては反省です。

追記4-いただいた質問で,「ヒトと、他の生物の差(食べ残しが許されるか否か)というのをどう分かり易く教えるのかが気になります」というのがありまして,その通りでして,そこが一番重要で,そこをつながないと理解は得られないと思います。その部分は,答えを言わず子供たちに考えさせる部分でもあります。どうか考えてみてください。
 それについては,時間のあるときに追記しますが,あまのじゃくですので,Q&A,マニュアル化したような話にはならないと思います。

追記5-最初に書くべきでしたが,あわてていたので。もともと,このエントリ(「どらねこ日記:食事の作法?」)を見て書き起こしたものです。そちらも親業やっていると頷く話ばかりです。

追記6-公園の落ち葉処理ですが,それやらないと侵入植物が,わいわい生えてきますし,親木である街路樹の未生も,場合によっては出てくるわけで,都市公園を変化させずに管理する方法として必然なのです。植生遷移を受け入れられる都市公園を設計した人も居ないわけで。
 それ故,人の手が入り一定の環境を維持しながら,生物多様性が保管される里地・里山が重要視されるゆえんです。これも実際は近隣の山河などの物質とのやりとりと相当の人手の力を利用して維持されていますから,都市公園モデルには使えないでしょう。





追記7-カラスのことを書いてくださった方がおいででした。都市に生態系があるとすると,確かに都市生態系の構成要素ですし,都市生態系の中にも,自然生態系に近い形で機能している部分がありますので,そこへの関与(有機物の運び手など)として,機能している場合があります。ただし,特定の生物だけが有利に圧倒的な餌資源を手に入れて増殖するというのは場合によっては,大変な問題を引き起こします。またそのねじれた都市生態系と隣接する自然生態系への影響も心配になります。カラスはプレッシャーをむしろ与える方の存在になるので。ツバメは日本では都市生態系に入り込んでいますが,カラスが優占する地域では,四六時中明かりがついて人が行き来する,J-POPが大音量で流れる店舗など,本当にとんでもないところにしか巣を掛けられません。これらの状況を見ても周辺山林の野鳥,小動物においてもカラスの増殖は好ましいものではないでしょう(彼らは野鳥の巣を襲い雛を丸飲みします)。また逆に何かの餌資源になってしまう動物は,それを餌資源とする動物を身びいきして今度はそいつが増える可能性もあります。そこそこの数で安定化しようにも,資源の元に人間が繰り出す季節変動もない圧倒的な有機物生産が背景にある場合は,好ましい結果は生じない可能性が高いでしょう。
 ドイツなどでは,人工環境で人間の資源依存型の生物だらけの環境でもビオトープとしてみようという傾向があって(処分場周辺のビオトープとかテキストに書いてあります)日本のその手の教科書にもその考えが導入されていますが,徹底的に生態系が破壊された状況でポジティブなものを見ようとして,本質を見誤ると危険かと思います。
 圧倒的な自然を排出する人間が住む場所からの自然生態系への影響はよく調べておく必要があります。もちろん,どこに行ってもカラスすら一羽も居ない都市というのも,悲しいですけどね。少々のおこぼれを利用してそこそこから菅井手も良いかなと思います。原理主義に陥らず,好ましい方向への誘導というのが,理想かなと思います。いろいろ書いていても,中庸という以上の知恵を示すことができず,つらいところです。

追記8-過食の文化的なお話は,たくさんいただいて参考になりました。奄美諸島など,島の文化としてお客さんが食べ残す量を出さないと失礼になるという文化が今も生き残っています。奄美だけではなく,山口県の田舎に迷い込んだときも見ず知らずのおばあちゃんにご飯を食べさせてもらって異邦の客人に対してそうやって振る舞うのはそもそも特殊なことではないなと思った記憶があります。
 一方で,出された方も,食い散らかして残り物もいっぱいというのも「失礼のない」お返しだったりするわけです。中国や韓国でも類似の文化がありますが,これらは,リサイクル料理や出したほう側の賄い飯に転じたりと言うのが基本だったと思います。残飯を豚の餌にした場合の爪楊枝問題は有名ですが,韓国では対策が講じてあるとブックマーク・コメントで教えてもらいました。そもそもそのまま食い残しを大量に捨てる所業を回避する文化がちゃんとあって,機能しているようです。
 他国や地方の状況については歴史や楽屋裏まで見ないと表面的な部分を見ては判断を見誤るということかなと思いました。実際,家庭で大盤振る舞いの場合は,どうやっても最終的に残飯は出ず,すべて食べ尽くすことは,日本の一般家庭でも普通にやっているはずだったので,問題は給食や外食産業など,出す品目や量が企画化されているところなのかなと思いますが,業界はそれはそれで大変なので,無駄は出ない方向での最大努力はあって当たり前かなと思います。

 まぁ,みなさん,ご飯は美味しく食べましょう。いつも余計なことばかり考えるのも,飯がまずくなります。尤も,子供に変なプレッシャーを与えず,何でも美味しく食べてもらうというのが,実際,至難の業なんですが。

追記9-どんどん追記する材料が出てきます,出てきます。読まれる方がおいでかどうか,別にして覚え書きとして記しておきます。

 維持する文化スタイル,地域,そこでの有機物サイクルの状況で,もちろん環境負荷やどの程度持続可能であるかは違ってきます。東南アジアの場合,先進国的な都市型の食生活や食材を使いだしたり,農業分野もそのあたりが替わってしまえば,今みたいな訳にはいきません。有機物のターンオーバーが早いので,熱帯植物を基本とした食材とインディカ,現状での魚肉の利用頻度で,年がら年中,一定以上多様性を求めなければ,日本に比べれば環境負荷の低い文化といえます。
 有機物を廃棄できるのはそのターンオーバーの早いシステムにちゃんと乗っているからですね。トンガなどでも顕著でしたが,海外青年協力で農業指導するとかなりの割合で失敗しました。農作物を作らなくても,食べ物が入手できるから農業のモチベーションを作れなかったというのが大きいのです。季節性もありませんから。現状,住んでいる人の多くが,外人観光客が食べているような食生活に皆が皆,移行していくことも考えにくいです。
 ただ,熱帯地域での懸念は森林を基本とした環境破壊です。文化的に因習的なスタイルであるほど焼き畑などに農業利用有機物を頼っているわけで,植物が侵入するも森林までは回復できない段階の土地が増えていきます。ターンオーバーの早さや降水量の多さは,土地を使い物にならなくする方向にも働きます。これらは最後には,現状の環境維持を困難にするところまで行く可能性があり,そういった地域では因習的に維持されてきたそれこそ地産地消的なサイクルが破壊され,飢えずに住むようにするには食物を輸入せざるを得ないところに退行します。いささかメタファーが過ぎますが,エデンとの契約書を破り捨てた結果,先進国の自給率の低い国がやっている状況にはまりこむ可能性があります。もちろん人口増加とのバランスにより問題の顕在化は異なります。
 東南アジアでのバングラディシュやアフリカのエチオピアなどで飢えている国の多くは,同時にそういった環境破壊が進んでしまった地域ですが,これについては,先進国の都合で作らされた商品作物農地による現地の環境破壊がその根底にあります。インディカの生産量が高くても他の食材のフォローも無く,人口とバランスがとれなければ,そういうことになります。戦後の日本の食糧難の時,ありとあらゆる場所で芋が作られていましたが,そういった補完する食べ物すら作れなくなる状況が生じると終わりです。土地を元に戻すには外部から有機物を入れる必要が出てくるわけで,その外部とはその土地の物質生産からのものでは無いという意味です。
 政情が安定していてもアフリカの多くの地域に行けば,みごとに毎日タロイモと豆を食わされることになりますが,そういった質の低い自給率に陥ることになります。地元で自生していた生産コストがかからない有用食用植物種(これはエデン的な食物の比率が高いわけです)が絶滅して,旧植民地支配国のプランテーション的な植物を作らざるを得なくなり,それがまた環境を破壊していった歴史の結果です。
 ODAのいくつかの問題は,先進国的なシステムに誘導する圧力を作ってしまったため,そのあたりにも寄与してしまうっている問題でもあります。
 てなわけで,食べ物が手に入っているということは,一種の歴史の結果であると同時に,既存の上手く回っているシステムを理解せずに暮らしていれば,大変危険な場合もあるわけです。現在のように,こういった因習的な食料生産分かと工業生産的な農作物栽培・供給によるグローバルな物質流通がせめぎ合う過渡期では,既存のシステムの意味が忘れ去れることが多いので,「買えば食えるじゃん」とか,「どこでも食べ物なんてできるよ」と勘違いされてリスクが増大します。ぽんぽん食料を捨てても,上手くターンオーバーしていて何ら矛盾のない楽園も,気がつくとなにも生産できない土地になるというのは,地域によりますが,脅かしでも何でもないのです。
 日本が飢えないのは工業先進国家であることがその担保になっています。それを危ういと考えることができる人も居ますが,食料なんて地方で作らなくても輸入すればいいだけだろというどこかの都知事的な感覚の方もおいでです。リスクをどのようにヘッジするかということについては,議論があってもいいと思いますが,少なくとも,食べ物を無駄にしないようにという価値観の教育自体は,日本においては一つの社会としてのリスク対策でもあると私は思います。現行学としてこの問題を考える場合,マーケットにあふれる食べ物を見るのではなく,その地で食べ物がどうやって生まれて手に入っているかということについて,もう少し元の方からの情報を吟味した方がよいかと思います。

(文中誤植,気がついたら直していきますが,Atokの実力なんてこんなものです。)
トラックバックURL : https://complexcat.exblog.jp/tb/10658800
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Commented by どらねこ at 2009-04-09 00:12 x
 こんばんは。
 楽しみにしていたエントリー、わくわくしながら読ませていただきました。
 期待通りの、地味(褒め言葉です)な提言。心に響きました。
 松林を保全するためには、落葉や競合する植物の管理が大切ですが、それは人間の身勝手な理屈。公園や庭の清掃でゴミ袋に落ち葉や小枝を放り込んで綺麗になったと大喜び、何かおかしい。何となく感じていた疑問を的確に指摘。こういった部分を批判することなくして次の段階には進めないと思います。
 飢えがあるから残食は良くない、本当にそうなのでしょうか。では、飢えのない世界では残食は非難されないのでしょうか。そこら辺の整合性が無いと納得できないとおもいます。
 人間は結局自分勝手、その自分勝手を持続するためには勝手を制御しなければならない、自分たち、そして子孫達の為に。

 参考になりました。どうもありがとうございます。
Commented by どらねこ at 2009-04-09 00:14 x
 例のブツの影響で酔っぱらっております。
 コメントの変なところはどうかご容赦を・・・

 いや、本当に旨すぎてやめられません。
Commented by complex_cat at 2009-04-09 12:29
どらねこさん,私なりの試験解答ですが,論理的につなごうとすると,まだ,難しいところがあります。
そこが一番重要かなと思います。

後,バイオ燃料,気に入っていただきうれしいです。
Commented by アサイ at 2009-04-10 12:10 x
はじめまして、アサイと申します。
ブックマークコメントで「ヒトと他の生物の差」について質問させて頂いた者です。
生物・環境関連および武道関連のエントリをいつも楽しみにしています。

追記4にて、ご回答頂きありがとうございました。
僕自身、親子向けの環境教育に携わっており、子供と野外で接する機会が多くあります。ヒメネズミの食痕のように、現地で確認でき、さらに考え方に繋げていける事例は大変分かり易く参考になりました。
子供に命について伝える場合、「命は大切なもの」「生きものの命の重さは同じ」というような言葉に代表される観念がよく用いられるように感じています。他方、当エントリで言及されている「システムの上に乗った生きもの」としてのヒトの存在を無視することもできず、あのような質問をするに至りました。
もちろん、この問いについて、マニュアル化された回答があるとは思っておりませんし、問題の本質や伝え方についてこれからも考えていく心づもりでいます。。
教えて君のような甘えた質問ととられてしまったようで(実際、自分のコメントを見返してみたらそういうものでした)、恥ずかしく思っています。重ね重ね、ありがとうございました。
Commented by complex_cat at 2009-04-10 17:33
アサイさん,ようこそ。丁寧なコメント感謝します。
環境学習分野の方で問題意識を持っておられるなら,正解を求め続けるアサイさんご自身の言葉で語る方が子供に通じますね。
 一問一答式,答え合わせ的な答えが上手く機能しないことはご存じの通りです。こういう分野は,暗記物と誤解されている理科教育の弊害が出やすいので,特に大人の人には考えてもらうプログラムが良いかもしれませんね。専門家からの知識の生かじりカンニングペーパーを見て立ち回る大人がこの分野多いのも,私は気になっているところです。いろいろなものを見て考えて,知識を蓄えその人の中から知恵として沸いてくるような,そういった自然観でないと子供に伝えても意味が無いと思っています。
Commented by まる at 2009-04-11 18:35 x
残飯。難しいです。なるべく出さないようにして生活しているつもりですがやっぱり出てしまいます。
出てしまった残飯はどうしたらいいのでしょうか?ゴミとして袋に入れて出すのとコンポストに放り込むのとは環境負荷はどのくらい違うのでしょう?
コンポストは環境にいいという意見もあれば、そうでもないという意見もあったりして悩みます。
個人的には残飯を土に埋めるとホッとするんですけど。笑
食べ物の大切さは種や動物から食料になる過程を知らないとなかなか理解できないと思います。そういうことを家庭や学校で学べたらいいですね。
Commented by complex_cat at 2009-04-11 23:10
まるさん,環境負荷の問題は,結構悩みますね。おむつも水汚すより,安い紙おむつの方が良いとか悪いとか。
コンポストは悪くないと思いますよ。但しそのまま近い水汚染になるような土壌構造と地下水の位置を持つ土地では,確かに環境負荷が大きくなる場合があります。
 バンバン作物作ればいいと思います。ウチのコンポスト周りは虫が発生するとそれを食べにアオガエルがやってきたり。それをチコが連れて帰ってきたりw。
名前
URL
画像認証
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by complex_cat | 2009-04-08 20:38 | Oracle of Cat King | Trackback | Comments(7)

Necology(=猫+Ecology) and Nature Photo Essay, Camera classic, Martial arts & etc. 本サイトはhttp://complexcat.exblog.jp/です。画像はクリックすると大きくなります


by complex_cat
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31