Ten years with Chiko
2012年 06月 06日

「父さん,公陳,何年生きた?」「15年だったよ。」
「そうか」
「ぼく,チコと後何年一緒に居られるだろう。」チコは10歳。こういう話が出るとき,末っ子は死による別れというのをいつも意識している。くよくよナイーブに考えるというよりは,それは彼を見送る役目をするということ。物凄く冷静に考えてその覚悟をしている,そういう子供。
「この家族の中で,ぼくが最後のひとりになる可能性が高いと思うんだ。その時,僕はひとりになる。」ということをなんとなく考えている少年でもある。まあ,兄弟の年齢を考えるとその辺は微妙だけど,家族を見送る役目というのを意識したりしている。こういう年齢ってあるものだと感じる。
私も,小学校中学年ぐらいだった。人はいつかは死ぬということを考えてなにか捉えどころがない死のイメージが頭をぐるぐる回ったり,今,生きていてこれを感じている自分が不思議でしょうがなかったりして,なんとなく友達に話して「うん,俺もだよ。」と言われてほっとしたのを思い出す。
「うーん,死ぬことだけは,人は決められない。決められないからいいんだと思う。父さんがいつ,いなくなるか,自分や誰かどこかの人が決めるとしたら,それはとんでもなく大変で面倒くさいことだと思う。」
人は生きることも大変だけど,死に方もとても難しいと思っている。いっそのこと毎日死ぬかも知れないと考えている方が,まだ楽かもしれないと思ったり。
「そうだね。今一生懸命生きるだけというのは,分かってるよ。」
ああ,分かりすぎ。もっとそんなこと意識せずに少年期をおくれよと思うけど,こどもってそういう部分がある。実際に,人は自分の死を決めることを余儀なくさせられる場合もあると言えるのかも知れない。

ムー:ゴリラは死ぬとき、どう感じるかしら?
--しあわせ、かなしい、それとも怖い?
ココ:眠る。
ムー:ゴリラは死ぬと、どこにいくの?
ココ:苦労のない 穴に さようなら。
ムー:いつゴリラは死ぬの?
ココ:年とり 病気で。
「苦労のない 穴に さようなら。」
「泣いたゴリラー優しい唄歌い」
猫がここまで言語化できるかについては,ここで語るつもりはないのだが,愛するものと存在を分かつことになる事象として,彼らもそれを経験し,メンタルな影響は当然のごとく受けるのは見ている。


お前の人生が戯れにすぎなかったのなら、死はお前にとって真剣事であろう。
だが、お前が真剣に生きたのなら、死はお前にとって一つの戯れであろう。
by クレッチマン
このクレッチマンがどこのクレッチマンか分からないのであるし,確認もできなかったが,ネットにあったこの言葉は,綺麗過ぎるが,言いたいことはなんとなくわかる。
なんやかんや,ほんの些細ではあるが家族をいろいろなトラブルが見舞うこともあったりする。とりあえず,ここで,家族で支えあって生きて行くだけ。
いつまでも一緒!
ずっと一緒!
c-cさん一家の大ファンなので
これからもよろしくお願いしますねー

