
入院して一週間以上、明後日で手術後1周間が経過する。これぐらい病棟に居ると、この規模のこじんまりした病院だと、同じフロアの人とは不思議な長屋の住人感が出来てきて面白い。私は最年少から二番目か三番目か上で、後はお年寄りばかり。日本の縮図的な、限界集落みたいだが、消えることが目的とされる集落だ。でも、入植者は次々とやってきて消えることはない。
本日も、新たな患者さんが入室されてきたが、痛みで体を曲げて起きることも出来ず、かなり苦しんでいた。食事や排尿などケアがかなり必要になりそうで、個室的に使う必要が生じたこともあって、私は火山島が見える窓側の部屋に一人移された。部屋が結果的に格上げになった気分。
日夜リハビリに勤しむ人達の故障部位や症状や回復状態は様々で、スタスタ歩き回れる私は、ほとんど身体的な制約もないように思えてくる。以前膝十字靭帯を手術して入院した病院も、リューマチ治療で有名なところだったが、関節を人工のものと交換手術してその後のリハビリに耐え、また反対側の関節の手術でを繰り返すみたいなお年寄りの戦いを見ていると、ああ、自分のこんなので死ぬ思いだとか口にしたり、痛みに耐える覚悟するとか片腹痛いわ、と思ったものだ。それでもリハビリは地獄だったのは確かだった。

私の入院は、まぁ一種のしくじりで、喧伝したくはなくて、でも仕事関係や色々なルートからバレてしまって、お見舞いが届くようになってしまった。
熊本の震災の時に、本の気持ち程度だったが、直ぐに水をお送りした組織の代表の方から、こんな詰め合わせを頂いた。くまモンとか熊本の名物が萌え絵になって紹介されているパックコーヒーと、エントリートップのコーヒーのフードジュート(麻袋)の再利用テディペアだ。ラップしてあるとローラ・パーマーみたいだ、なんてことはおもつてはいけない
麻袋熊と見つめ合ったりして、なんとなく忘れていた幼年期を思い出した。テディベアなどという高級なおもちゃなどは買ってもらえなかった私だったが、祖母が頑張って製作してくれたおかげでぬいぐるみのクマが「3つの下僕」のように三体仕えていた。
1号はプロトタイプで、やはり祖母もノウハウのなかったところで、部品の耐久性に問題があり、脳みそが飛び出しかけてて(そのスペースに隠し武器を持っていたが)、その代わりにと投入された主戦機になるはずだった2号は、シリーズ最高の頑丈さと大きさだったが、父親が脱いだ下着を上に置いたので少し異臭を放つ仕様となり、嗅覚が敏感な子供であった私は、見捨てずにそれで遊んでいるとメンタルがダウンしてくるという特性が有った。したがってもっぱら小振りなシリーズ最高峰の3号の出番が多かったのを覚えている。叔父が笑いながら「煎餅グマ」と呼んだ、顔が球体でなく、ややペチャンコの、今どきの子供に渡せばコレジャナイ感満載の「テディベア」だったが、お気に入りだった。小学校に上がるときに、静かにお別れした。今考えると、顔は耳さえ変えれば猫でも通用したので、私には好みの造詣だったのだろう。
彼等はただのテディベアではなく手足を折りたたむとガメラのように回転ジェットで自由自在に宇宙を飛びまくり、成層圏から落下しても不死身で、怪獣、怪人たちと日々決戦を演じていた。でも名前はただの「くまチャン」〜号だった。幼稚園の同級生は、我が家で遊ぶときは皆、彼等を入れて、地球防衛軍とかみたいな具体的な名前を持たない正義の軍団遊びに矛盾なく付き合ってくれていた。
頂いたテディペアは私には極めて趣味の良いものに見える。空を飛んだり、パンチやキックを放ったり、眼からビーム発射したり、ダイヤブロック(レゴじゃない所ポイント)の光線銃やロケットを扱ったり、誰にも見えないバリアを張ったりする能力はなく、静かに私を見つめ返すだけだ。やはりこれは静かに病室で過ごすにふさわしい存在だなと思った。
幼年期私に仕えて、バックの中に入り込みながら、凶悪怪獣や宇宙艦隊と戦った三体は、特別な存在だったのだろう。でもまあこんな壊れて修理中のオジサンのところに来たわけだから、何かの使命があるのかもしれない。眼から復元光線でも出してくれても全く文句はない。君のしたいようにしてくれていいよってなもんよ。
甘いものに飢えていたせいか、ウエハースはなんか嬉しかった。その後、和菓子セットが届き、これもいつぞやの鎖骨返しかなとありがたく拝受した。