コロナ禍もあり、私が空港や途中で感染してとか、リスクなどを考ええれば、下手すると両親とも殺しかねないなと、それまで月一で遠距離介護の帳尻合わせに帰省をしていたのもこの一年以上自粛していた。次回、ホームタウンに戻るときには、冗談ではなく、父母のどちらかを失った時しか無理ではないだろうかと思っていたが、果たしてその時がやってきてしまった。
多少、不自由ではあったろうけど、介護のスタッフの人たちに守られて、最期は外の政治や社会の喧騒やコロナ禍からも離れた状態で、眠るように息を引き取った。それだけが救いだった。
ペガサスは、母が一時期、とても気に入っていた『動物占い』で、彼女がペガサスにカテゴリーされていたことから、私たちだけに伝わる符牒だ。私はペガサスだからと母は、よく口にしていた。私自身『動物占い』、そう言えばそういうのがあったなーっていうぐらいだが、母もずっとやっていたわけではない。でも、ペガサスが彼女の動物だと知って、そのキャラクター像を読んで、とても喜んでいた。私はペガサスだから、と。それ以来、彼女の口癖だった。
ずっと自由に飛び回りたい、母の関わった子供たちもそうさせてあげたいと思って、彼女なりの闘いをしてきた人だったと思う。母が幼い日に弟を失った苦しかった日々のことを息子たちに話した。ちゃんと全て伝わっているよ。
年末にかなり様態が悪くなって、明らかに、苦しそうに戦う危篤状態から一転、固形物を食べお風呂を楽しめるところまで回復していたのだが、介護をされていた方も、まさかと思われる薄暮の中で、永久の眠りについた。無論、皆さんプロだから、いつ、彼女の状態が急変してもという体制であったことも確かだ。父も私も、一度は覚悟をしたその後、2ヶ月近く母は頑張ってくれて、しかも一旦平常状態を取り戻して、その後、眠るようになんて。本当にありがたい母だなと思った。母が死の淵から回復した時も、父も私もホッとしながらも、やはりこのままの滑空を続けるのは母には難しいだろうとは予感していた。母の命の高度みたいなものがあるなら、それが徐々に下がっていっているのがわかった。葬儀や手続きを済ませた後、ずっと眠れてなかった父は何よりも、良い意味で、力が抜けているように見えた。母より自分が先に止まったらとか、ずっと心配していたのだ。
通夜に親戚が集まってくれて、話す会話は、我が一族の墓じまいの費用捻出や仏壇の魂抜きの話ばかりで、何処も、昭和までの慣習が意味をなくしつつあり、次世代への積み残しにならないようにという流れを感じた。皆、基本、地方の保守層ではあるのだけれど、世代の問題でもある故に、終活や経済事情を前提にした話については皆、真剣にならざるを得ない。
母はプロテスタントに入っていたこともあったが、カソリック、縦横無尽に友人がいて、ある懇意にしていただいた著名なシスターから「うん、あんたはキリスト教やめてもいいよ。大丈夫。」ってお墨付きをいただいていた。シスターは、私が人生の最大のピンチの時にも現れて、そして、私がそれを乗り越えた後に、ありがたい言葉をくださった。母が信じていたものは、まともな宗教者の全てが愛すことを許したものだと思う。
葬儀は簡素なもので、でも、祭壇の花だけは目一杯飾ってもらうようにしたと父。
父と私、そして、少年期、祖父母と合わせて一緒に暮らして、姉代わりともなった従姉妹の三人。斎場では最低限の進行だけやってもらって、セレモニーの前に母が好きだったEnyaを、安直と思いながらスマホから流して、少しだけ母に聴かせた。色々悩んだが、今回、私だけが斎場に直接母を見送りに飛んで来ることにした。
それでも、コロナ関連死など、側で見送ることすら許されなかった葬儀を強いられた人たちに比べると、恵まれた方だ。
三昧場で荼毘に付された母が、分子に分解され、大気に混ざり宇宙の成り立ちの世界の方に戻っていくのを見送りながら、空きスペースで遠く離れた地にいる息子たちと合わせた時間に、稽古した。
その時ふと、なんとはなしに身体と拳撃を高める方法に気がついた。中国武術は宇宙と一体化するのが真理だと言われるが、そんな境地とは程遠い私故に、大層な話ではなくて、ほんのわずかな気づきみたいなものだ。
その時その場で、震脚を響かせながらこんなことを、私は考えていたわけだ。貴方の息子はこんな不思議でヘンテコな男に育ったよと母に伝えた。どのリアルな動物にも該当しない、「ペガサス」だった母のお気に入りの方向だったかもとは思っている。
喪服は最強で、どこで何やっていても、人は目を合わさない。そのままの姿で自転車に乗って色々買い出しに行ったら、車は横断歩道で慌ててすぐに止まってくれる。変な殺気は孕んでなかったと思うけれど、私の佇まいはなんとなく死神に見えるっぽいかなってちょっと笑ってしまった。
空港は緊急事態宣言の最中、お客さんは極少で、土産物のブースの集まりも、それに合わせたのか、改築中であって、ほとんどが閉まっていた。
戻りは、気流の影響で揺れて、初めて搭乗したボンバルディアのジェット機は、到着時に一度、完全にランディングを諦めて、着陸を再チャレンジすることになった。この緊急動作に、疲れていたが目が覚めて、少し余計な汗が出た。
戻ったら、チコがこんな顔で待っていてくれた。彼は、いきなり家族を失うとしても、その瞬間はわからないよね。しばらくしてもずっと会えない、という状況になって何となく、失ったものを理解してくことになるのだろうか。彼は色々失いながら、そうやって我が家にたどり着いたことを思い出した。彼の大好きだった義兄の公陳丸もある日、闘病で隔離されていた部屋から突然いなくなった。チコは二度と彼に会うことはできなかった。
そして、数日後、チコが彼を呼んだ声を家族は聞いている。「ここに来て。僕はここだよ。」
私は、人間の脳内で勝手に脚色された動物の擬人化が基本好きではないので、このブログでもやらないようにしているけれど、チコが体にハンディを持ってから、その声を頻繁に聞くようになって、その声の意味を確認した。
食欲も排便も、他の健康状態も家族のおかげで順調だった。いつも通り。私が毛布にくるまると、こたつ脇で寝ていた彼は、即私のそばにやってきて、足の間で横になった。その次の瞬間、私は深い眠りについた。目覚めた時に、チコに感謝した。
何かの夢を見たような気もするが、覚えていない。ペガサスの写真はないけれど、マナヅルが北帰航で高速で天に登っていく画でも貼っておこう。ツルなら、縁起もいいだろう。ちょうど今の時期だ。母が同じく天に登っていった空より少し離れているが、ビッグバン以来、私たちの成り立ちとなるものを作ってきた世界の物資のこれまでの流れを思えば、その距離に大した意味はないだろう。 私もチコも、活くるものたちの全てが、母が旅立ったと同じ世界に、やがて戻っていく。そう思えるのは、母のおかげだろう。