チコを失って1年が経つ。
まだ1年しか経っていないとは信じられない。物凄く時間が過ぎた気がする。
本当にまだ1年しか経ってないのかと思う。今日まで物凄く日々が過ぎていった気がする。
本格的に彼のターミナルケアに入ってから、このブログへのモチベーションも、このブログに書くことの多くと書こうとする意識も、自分の中から失われて、どうするかなって考えるのも面倒になってそのまま今日まで来た。
でも、何か書かずにというか、彼に、伝えたいことを書かねばならないかなって少しずつは思うようになった。
自分は猫も犬も何もかも動物が大好きな少年だった。
少年期、彼らに関わっている時、時間はいくらでもあって、自分には犬も猫も虫も、生き物たちとの幸せな出会いと、そして彼らとともに過ごす時間が延々とあるものと思っていた。少年期の無敵感というのは、時間に気兼ねしないという部分もあるのだろうなって思う。生きてきた時間の逆数、むしろなんでこんなに時間は早く進まないのかというやつだ。
今では当然失われた世界だ。チコと過ごした日々は、今思えば、あっという間に終わってしまったし、自分には今では奇跡にも思える貴重なそしてもう二度と戻らない日々だ。
彼のことを考えていて、最近気が付いたのだが、呼吸が止まっていることがある。それに気が付いて、ダメージはむしろその後できた。チコは今どこにいるだろうか、みたいなあまり意味のない疑問の答えを一瞬だけ考えたりするのもうやらない。
最近は、英国の首相官邸で首相官邸ネズミ捕獲長をやってるラリー君を見て、家族と一緒によくよく見ればちょっとチコに似てるなぁなってことを思ったりする。右手に「ブレスレット」をはめていたるところや、顔つきは割と違うのだけれど、一瞬チコに似た表情や輪郭を彷彿とさせる画像が見たりしてびっくりする。彼もチコが存命の時からの存在なので、実際、今更という話なのだが、それを最近気がつくなんてのもちょっと不思議なものだ。
このブログは、最初は写真ブログだったのを思い出した。まあ下手な横好きの写真とカメラ、半人前以下の画像と書残したい事を一つにしておこうと思ったのが最初だ。
チコの画像は、膨大に撮影したはずだと、最初は思っていたが、実際は無尽蔵にあるわけでもないなと感じるし、日々同じような写真を見直している。
動画も、ハードウェアと時代の齟齬みたいなものもあって、結果として、そんなに残ってない。彼の全盛期が本格的なSNS時代だったら、もっと動画を撮っていたかもしれないが、彼との時間は、動画と違って、一瞬にあらゆるものを凝縮して閉じ込めることができるような、スティル写真がふさわしかった、その結果だと思っている。
最後に。
チコ、とりあえず、君は今、どこにいる? やはり尋ねたくなるのは、どこかに、君であったものが存在すると思っていたいからだろう。
猫廃人とは、仲間内でよく笑って言うネタだったが、そんなものなのだろう。