実家のあるインダストリアに戻っていた。
覚悟はしていたが、父が母の元に旅だったからだ。
親戚やかれの友人だった書士の方に手伝っていただいて、彼の死後のことを済ませようとしているが、まだ全然終わっていない。ドタバタする前後にワイフの母上が入院したり、まあ、自分の年齢なりの出来事に、それなりに覚悟してきたものの、いっぺんに来ると慌ててしまう。昨年からのプロジェクトや10年近くやってきた解析の結果の後始末など、待ってはくれなかつたから、割とくる時は来るのだなと思う。
父の愛機はなんといっても過去使っていたクスリユーマウントのペンタックスSPFなのだが、それは、すでに私の手元にある。私とアマチュアの集まりの写真展をやるようになってからは、若い頃の彼の給与では到底無理とかつては諦めていたニコン党になることができていた。
ついでにLeice M6TTLとレンズが何本か。カメラライフの最後にささやかな贅沢するつもりだったのを、母が、もっと背中を押してくれた結果だった。
私がプレゼントしたL/Mマウントレンズよりも増えていた。何かホッとした。
機械には強い人だったが、デジタルには手を出しかけていたが、本気で移行はしていなかった。彼の全盛期、フィルムで終われたのはある意味幸せだったかもしれないと思った。
彼の蔵書8,000冊の一部、特に中国関連資料は北京大学の学生さんたちが、311で身動きが取れなくなった時に我が家に集まって、整理してタグをつけ北京大学に寄贈されたが、あくまで一部で、まあ、この後どうするか、暫く考えることにする。
追記1ー父のことを語るのは、簡単ではない。ただ、私の人生をずっと強力にサポートしてくれた。学際が夢だったにも関わらず、家の事情で、長男でもないのに、早くから働くことを選択して、経済的に祖父母一家や弟たちや兄弟姉妹の子供たち(つまり私の従姉妹)を支え続けた人でもあった。私が自分の研究材料により、朝日新聞社刊と平凡社刊から図鑑が出たときに、「ああ、お前は俺を超えてくれた」と喜んでくれた。テキストの添削を控えめにしてくれたが、私の中で、圧倒的な国語教師といえば、父のみが上がってくる。この都市の教育分野では、現場の実績に関しては、周りの教師や生徒たちから多くの評価を得ていた。
空襲を掻い潜り、我が一族、唯一の財産として残った貴重な焼き物を背負って、足場のない死体の山を飛び越えて走った人でもあった。彼の無神論は、少年期の戦争体験が大きく影響したと思っている。日本人の宗教観などいい加減でファジーだが、父の場合は、明確に無神論だったなと感じる事が多かった。葬儀も直葬を私に厳命していた。
私の機械いじりや自然科学への好奇心は、父のおかげだった。TVの構造を勉強し修理するなど、なんでもメカに強かった父が、定年後はカメラ以外のメカは使うことを切っていた。機械は強いがソフトは苦手なのも、世代ゆえ生じたものだとわかっているので、現代社会で、パソコンやパッドを使いこなせる人間が、本当に詳しくて、テクノロジーに強いなんてことは、私は思わない、大した事やってるわけでもないのにドヤすんなよって。そういう視点も父のおかげで得る事ができた。
とても照れ屋だったせいで、アイロニーに満ちていた父との会話は、もう交わすことはできないが、今でも私の心の中では成り立っている。