ユッチと兄弟姉妹同然に育った長男が、「『フリーレン』の疑似体験したような…彼女の気持ちが少しわかった気がした」とユッチとの別れについてのポツリと口にしていた。とても私には暗示的な一言だった。
この沢山保護されたかごの中、手前にユッチ、そしてその一匹挟んで真ん中あたりにナッチ。
君たちを家族として迎えることができた時、どれくらい私達は喜んだことだったか。 猫も、平均的なキャットフードの品質が上がり、や各種ワクチン接種等医療関係のサポートもあり、更に、室内飼いが基本となって、長生きするようになった。その結果、家族として暮らす時間が長くなったけれど、それでもどんなに長寿な子も30年には到底及ばない。 そして彼らに比べれば、我々は、はるかに長寿族だ。ユッチとは18年前に出会った。その子の魂に羽が生えて飛んでいってしまうのを先週、見送った。
フリーレンは、幾たびかの永遠の別れを経て、ホモ・サピエンスと関わるとき、同じ覚悟をしているのだろうと思った。
その長寿族と人類との関わりにより愛憎、苦悩、儚いけどたしかに存在したことから時間の長さだけが重要ではないことなどが描かれているが、非常な立ち位置にある主人公のファンタジー設定だと思っていた作品は、古来から沢山ある。 そもそも旧約聖書が長寿の人類を描いたものとして存在するので、コピーとしてのメトセラは、「ああ、あのーあの人かー」で繰り返し、西洋社会では使われる名前として有名。享年969歳、太陽暦だと940歳とのこと。なぜそんな長寿者を作り出したのかの研究事例については、多分あると思うのだけれど知らない。長寿にして人類誕生から世代を圧縮しないと話の辻褄が合わないからだろうか。メトセラの息子、ノアの父親はエノクだが、メトセラの親の名前もカインの子であるエノク。ノアがカインからたった4世代目っていうのもなんかすげーなとは思った。 旧約聖書そのものを載せずに、ここでは上からの流れもあるので藤原カムイ氏のコミック作品があったのでそちらを。でもメトセラの5章21節から27節はこの短い二冊では描かれていない。ノアのじいちゃんであるメトセラが187歳のときに、生まれたのがノアという設定が神が書いたもの。
古典SFだとこれだろう。矢野さんの誤訳の多さでも有名だ。
スター・トレックシリーズにもメトセラを冠した作品はある。不老不死、病原生物も存在しないよう管理された惑星の人口削減政策のためにカークが病原菌の巣窟としての人類として陰謀として利用される回。今よくある話で、トンデモ医療の非常識行為にある免疫パーティみたいな話ではなく、文字通りインカ文明を滅ぶすような惑星外病原生物の導入元として、カークは利用される。 少年期からSTのTVドラマのファンだったから、このノベライゼーション・シリーズも大好きだった。細かい設定などもよくわかったし、TVよりもより記述で明確にしなければならないので、ファンとしての基礎情報が増えた。
人々が愛し合い、憎みあい、文明が勃興して惑星が消滅する流れを、すべてその眼で見てきた超能力者。そういう超越者の苦しみや達観、更には運命への抵抗を描いた作品としては、秀逸で、似たようなプロットの主人公は、居そうで居なかったりするが、別作品のキャラクターモチーフとしては、沢山存在する。 日本のコミックなら、金字塔的なものはこの作品だが、古典化するには、編纂や解説本が充実しないとちょっと苦しいかもしれない。新規のファンが整理された流れで楽しむのが困難になってる。
大好きな作家の大好きな作品で、私は、この人の描く、人と社会の空気感のリアリティ描き方がとても好きで、感情移入もしやすいのかもしれない。 WOWOWでドラマ化されているが、尺の問題や俳優さんの制約もあって、同じ作品としてみるのはちょっとしんどいけど、一応評価。話が進むにつれて、絵コンテをそのまま台本にしたような部分は殆どなくなっていってるけど、無理は言うまい。スタッフ、俳優さん頑張った。
書きたいことを適当に書いているので話が迷走しているか。 先に、猫たちを残して、自分たちが逝ってしまうことのほうが悲劇で、それは避けねばならないし、彼らを愛して一緒に暮らそうと思ったのなら、(猫と比べて)遥かに長寿族としての負の部分を引き受けて生きるしかないのだ。
追記1ー日本の誇るSFコミックを忘れていた。ここに収められている『月夢』は八百比丘尼(やおびくに)を縦糸に横糸に月面探査計画を持ってきたファンタジーSFとして、発表された当時、その作者の圧倒的な画力とともにショックを受けた人も少なくなかった。一つの金字塔だと思う。ネタバレになるから書かないけど、月面に出現するものととしてのアレは、ハリウッド映画でなんでもCGで可能なのを見せつけられている現在と違い、当時はイマジネーションの具現化として驚きを持って評価された。何よりも、彼女を「かかさま」と呼ぶ老婆となってしまった養女の表現は、永遠の寿命を持ったものの苦しみと人生の矛盾を凝縮したようなものだったように思う。 寿命はそこそこでいいのだ。何も運命がわからない人間としては、それすら贅沢なのだろうと思うが。
ユッチはよく生きたと思う。
チコが、老境に入り、テリトリーシールドが消滅しても、彼女は、活動的だった。と言っても、ホームレンジをGPSで確認すると、20m四方ぐらいの狭い範囲を動いているだけで、既に、全盛期、お隣のお宅の天井裏のクマネズミ退治に出かけた頃の動きではなかったが、それでも猫ドアから出撃して戻ってきて、家族の布団に潜り込んでくるのがこの時間。彼女が布団に入ってくると、一緒に、二度寝してしまうタイミングで、非常に危険な時間だったことを思い出す。もちろん、長男がそれを一番やらかしていたが、いつどこで眠るかは、彼女はとても気まぐれだったので。 センサーカメラが赤外線モードになってる時間帯なのがよく分かる。ユッチはほんの2年ぐらい前までは、こうやって活動的に庭のチェックをしていた。本当にその先が、彼女にとっての時間の流れが静かに加速していったのをとても強く感じている。 その前の母と、父のすべての衰えと死を経験していて、ずっと永遠に生きてもらえるなんてことはないので、当たり前で、順番は仕方なくて、その順番が狂うほうが大変で、みたいなことをずっと自分に言い聞かせて来たのと重なっていった。変な話だけれど、自分が生まれて以降の時間軸では、平均的に残存年齢を見れば、自分たちの方が長寿族だ。 なんだ、長寿族って? 確率的には当たり前で、それはそういうふうに生まれてきたのだから、それを覚悟して、受け入れるのも当たり前だ、って今は思うようにして、思考を遮断している。あたりまえ、あたりまえ。当たり前の罠もすごく大きくて、事故死、病死、災害死、戦争や虐殺による死、自死に関係なく、子どもたちの死が、例えようもなく納得できるものではなく、苦しいのも、その逆転故もあるだろうなと想像する。火葬場などでも、少年少女、若い人が亡くなった集団は、全く違うとそこで仕事をする人が言っていた。当たり前だけれど。 私の祖母のときは、彼女は愛されていたけど、本当に親戚一同、皆、一つの区切りが来たという感じで、対象的だった。
結果的に、ユッチたちに、よく頑張ったと言えた運命は、長寿族として、最初に彼らを家族にしたときの覚悟のとおりで、その事自体も幸せだったのかもしれない。
ありがとう、ユッチ。君が私達家族のもとにに来てくれて、私達は、本当に君と幸せな旅を続けることができたんだ。