この当時から鰹のたたきは、質の良いものしか食べなかった(チコミシュラン 2005年 04月 25日)。日本の景気が後退し、地方都市のスーパーでも、店によってはかなり質の悪いものが置かれるようになり、結果、あまり売れず、そのまま鮮魚部、売り場の消滅縮小みたいな、ちょっと前に起きたような状況は、誰も予想もしていなかった。

白身魚の鮮魚の焼き物は定番で、よく食べた。下手な高級キャットフードより安いので、当然家族一緒のものを食べると言うことで、チコの皿には定番だった(チコミシュラン3 2005年 07月 08日)

この頃は長兄分の公陳丸がまだまだ健在で、鮮魚を好むことがわかったのも、彼のメニューのおかげもあった。彼がカリカリと缶詰しか食べないような猫だったら、チコもそう言うものを口にする機会はなかったろう。
子供たちが外で遊ぶ時には、公陳丸とチコは、ガーディアンエンジェルのようにいつもそばにいた姿を思い出す。一番年長の公陳丸が旅立ってから、もう15年も経ってしまった。
大隅半島で舌鮃(クロウシノシタ)を手に入れてきた時。かつては、私がワイフと南九州にやってきて暮らし始めた頃には、西海岸(吹上浜)に大量にやってきて産卵するような状況だったのだが、そんな話が昔の思い出話になるぐらいの時間は過ぎた。そして、水産資源枯渇は、見る見る間に進行していった気がする。

イカ刺しときびなごの刺身の2皿実験的な選好性テストでは、センターポジションから交互にこれらを食べて全て平らげて、私を大いに驚かせたものだった。

ターミナルケアに入ったときには、ともかく食べたいものを出さないと、平気で拒否されるのが怖くて、ワイフと二人、食材を探し回った。ちなみに、伝家の宝刀みたい身言われるチュールは、我が家では全員、好んで食べることはなかった。それは結構、病気治療やターミナルケアなど、本当に適当に管理していつでも食べさせるものがなくなるリスクになるので、食べられるように躾けておくのはとても重要だなと思っている。

これは意外なヒット作、屋久島産飛び魚のムニエル。色が細くなったときに、これを喜んで食べたがったのには、ずいぶん驚かされた。屋久島に調査に行く度に、知り合いの水産会社の社長から冷凍パックを譲ってもらったりしていた。

ちなみに魚類の精巣は、日本料理ではセオリーとしては煮物が多いようだが、私はトビウオからブリ、マグロまで、精巣は焼き物にするのが一番美味いと思っている。
この頃になると、ともかく何であっても彼が喜んで食べてくれるものがあれば、それは私たちにとっては救いだった。
体力が落ち、あれだけ大好きだった、外のパトロールに家族の監視つきでも出かけていった彼が、自分の体力の限界を見て、ぴたりと家から出ようとしなくなった頃から彼の残された時間は急速に進んでいっているのを感じた。この頃はまだカツオやシビは口にしていた。

おそらく柔らかさや食べやすさから、選択が変わっていったのだと思ったが、最後まで食べていたサーモンの刺身は、かつてはそれほど喜んで食べるようなものではなかった。

排便をスムーズにするために、彼が自分で編み出した方法だが、牛乳をよく飲んだ。体質に合わない子でなくて、これも助かった部分で、農協牛乳ブランド一択であった。

暑がりで雪の日も出かける彼だったが、プロテクターであった筋肉も脂肪も消えていったときには、居間のコタツの子のポジションで普通に眠るようになった。それから私と妻は、彼のケアのためにずっと居間で眠るようになった。すでに階段を登れなくなって久しかった。

元々鮮魚は色々試す子だったが、白身魚が好きでも徐々にそれも口にしなくなっていった。血子鯛はチコ鯛だとよく手に入れていたが、そちらは焼き物も刺身も本来は大好きであった。

別れの何日か前の様子。時々薄めを開けて、いつも通り私がそばにいるのを確認していた。尻尾を動かす筋肉もほぼ機能しなくなっていた。
別れの瞬間は本当に唐突だった。覚悟していたが、先に心臓がダウンしてしまったので、苦しまないようにということにはならなかった。でも長くはなかった。彼は私に助けてほしい、まだそばに居たらダメかと言うような目を向けたようなきがしたが、私は助けられなかった。長く一緒にいる、そしてずっと一緒だと伝えてきたが、もちろんそんなわけにはいかなかった。
これだけの存在だった猫が、私たちの中から消えることはない。そのことだけは彼はわかってくれているだろうかって部分は、まあどうしようもない単なる感傷だが。
全盛期、見事に筋肉の張った体躯に白い胸毛。彼が自分でケアしていたものだ。痩せさらばえ、グルーミングもまともにできなくなった最期の頃の彼の姿もどちらも、彼の姿として私の中では矛盾なく存在している。
君が私たち家族の元を去って、もうすぐ三度目の春が来るよ。