世の中、秘教的なカルト、つまり秘密の教えや奥義的なものが存在し、超能力、オカルト系、密教などを存在価値の一つに用いているようなタイプのカルトがあるのだけれど、明らかに反社会性カルトには見えないのだが、その危うさみたいなものは、結構あると思っている。
オウム真理教による地下鉄サリン事件 から30年が経過した。今では、当時のオウムというペテン的新興宗教の教祖が、サークル宗教みたいな無害なものとして扱われながら、どのようにメディアなどに勘違いされて、メディアや宗教学者や社外学者と呼ばれる人たちの一部に利用されたか、最後にはカタストロフィっくなエンディングを迎えたのか、そしてそのあと、どのような影響が社会に与えられたのか、実感として感じる人は既に少数派になりつつあると思う。
彼らが、知識の足りない無防備な人たちを日常とは乖離した体験をさせて、引きずり込むために何をやったかということについてあまり論議されていないことについてずっと気になっている。私の仮説を書くと、一つは、彼らは「魔境」をビジネスコンテンツにした部分が見過ごされてきたのではないかと思っている。
「魔境」と呼ばれるものがなんであるかは、簡単ではないが、禅や瞑想などにおいて、一種の脳にバグが引き起こされる状況だと思っている。自分が何か上位の存在から啓示を受ける特別な人間だと勘違いするきっかけになる幻覚や幻聴に陥る状態と共通はしている(厳密にそれと同じなんてのは言うのは難しい)。
実際瞑想教室では、指導者がよくわかってないと簡単に「神と会話して自分が選ばれた存在だと思い込む」人が発生する。まともなグルだと、瞑想中変な動きを始めた時点でひっぱたいてこっちに戻したりする。禅やヨガにおいては、「魔境」に陥る経験をしたらそれに囚われず、忘れてしまうことが必須とされる。もしも、禅の途中で仏に逢えば仏を斬り、神に逢えば神を斬る。ごみとして捨て去る。それが重要だとされる。まともなグルが付いてると言われる秘教的な教えでは「神秘体験をしたらすぐさまそれを忘れろ」と繰り返し言っている。もっと現代人に分かりやすく言えば、せん妄や幻聴、あるいは統合失調症と同じ脳の状態はある一定の手順を踏む中で誰でも一定の確率で体験しうる。それは本来幻想にしか見えぬものが、あたかも現実にそこにあるように「脳が見せてしまう状態」であると言える。脳機能に問題がない人でも、そういうことが一定確率で起こりえる。プロセスについてはあまり触れないが、私もハードワークしているときに何度かあった。
一度目は、入ったトイレの中で虹色の水が噴き出して、こちらに向かって溢れてきた。「うぉ、幻視だこれ?!」と思ってそこにあるはずの虹色の水に手で触れ峩々勿論実体はなかった。「だめだなぁ、そういえば三日寝てないや」と思ったがしばらくその状態は続いた。まさしく夢遊状態でも何でもなくて、用を足して手を洗って、ふつうに起きている自分に「脳が勝手に見せている」状態なのだと理解した。
その幻視体験に先行すること、4年ぐらい前だったと思う。ある時は、やってはいけない睡眠不足での深夜の単調な高速道路の運転時、いきなり道路に亀裂が入ってすさまじい裂け目をさらしているところに車が突っ込んでいった。慌てて駐車スペースまで車を走らせて、仮眠をとった。これと併せて二度の幻視体験だった。私の先輩は、遭難寸前まで冬山を歩いて下山中、やはり幻視を見ていたが、まあ、そこまで脳を追い詰める体験などないに越したことはないし、統合失調症の気のある人は、そんな負荷を脳にかけていれば、それを機に発症しかねないから、大変よろしくないと思う。
今回、AIでその時の体験を描画させようとしたのだが、まあタンクの位置やタンクへそそぐ水にしてしたのだが、滝のようにどこからか落ちてくる水みたいなの、トイレットペーパーの場所も不便そうで、今のAIには人がトイレに入ってやることが理解できそうもない。
こういうのをあるプロセスの元、見せてしまうと、それを見せることができてしまう団体、組織、指導者が勘違いしてとてつもない真実を語っているという風に偽装するためのフックにはなる。集団心理も働けば、自分は今、とんでもない世界の扉を開けたと勘違いさせる方に誘導するのは、その頭の状態ならかなり簡単という気がしている。実際に新興宗教の教祖がやたら発生する状況というのは、似たようなところがある。
上の画の、生成では、AIにファンタジー補正は頼んでないけど、妖精みたいなのを飛ばされた。やはり欧米の価値観かも。
奄美大島の世界自然遺産への住民との話し合いや政策を進めていた環境省チームの方から聞いた話だが、いろいろな自然体験について聞き取り調査を行っていると、私は若いころ、ケンムンと本当に相撲を取ったことがあるんだって言う人が出てきたりする。その土地の人の自然観や自然との距離などのフィールドワークにおいて、非常に興味深いのだが、実際に幻視だけではなく五体の接触、皮膚感覚や運動体験として感じるものは、せん妄状態でも普通に報告されるが、それが薬剤、ドラッグ、睡眠不足状態などと無縁でも、人間の脳はたまに引っ張り出したりすることがあるのか、本当にケンムンがそこに現れたのかは、ここでは問題にしないが、見たこともないものを見るというのは、それが真だったりするのは、多くはフィクションの世界だったりする。いずれにせよ、脳が見せてしまう状況は一部にあると感じ、それがカルトの取り込みにおいて使われた場合は、笑って流す訓練が必要だと思っている。
AIに奄美って入れたから、ちょっと嘗ての島の髪型の鬼みたいなのが出てきたが、ケンムンも分からなかったようだ。「ケンムン」検索で唯一出てくる画は、河童みたいなやつだけどそれは参考にできなかったようだ。
武術関係でも、危うい業をやったり、他の人とは次元の違う力欲しさに、変な方向にはまる人が出てくることは、昔から観察されていた。まともな武術修行者、愛好家の中にも、ちゃんとした修行や訓練をひたむきにやっている中で偶然関わってしまうみたいなのはたまにあるので、頭ごなしに罪悪感や非手に走ったりするのも変な話で、要するにバランス感覚みたいなものは、健全に生きていく人にとってはとても大切なことだ。
話がとりとめもなく、まとまらないしまとめる気もない。武術にも、実はかなり超能力的な技や能力に見える分野があって、超常現象的な能力を手に入れるために、まっとうな格闘技や武術の世界から離れて、人生をつぶしてしまう流れみたいなのは、大昔からある。一見したら精神の持ちようなどで技の運用が決まってしまうような現象も少なくないし、奥義書が、武術のコアテクノロジーを秘匿するために、そういう話に満ち溢れていたりするので、そういう流れになっていくのは、実は異例のことではなかったりする。そういうのに初めて触れて、なんとなく魔法使いの弟子になったような気分で取り込まれるみたいなのは普通にある。こういう興奮や何か仲間が沢山いることへの一体感は、どう見てもあまりまっとうな欲望を持っているとは思えない政治団体だったりするから、そちらもいろいろ気になる部分は多い。
この話には、情報開示的には少し拙いものも含まれていて、また誤解を呼びやすいとおもっている。とりあえず護身・武術カテゴリーで書くのが無難かなと思っていた。忘備的に、生きていく中での護身の意味を込めて、あるいは子供たちへ、そのまた子供たちへ。子供たちの子供たちの子供たちへ。
彼らは、カルトビジネスに取り込むために、人の感情や脳を攻撃してくる。神秘体験はあなたの脳の中でしか起きておらず、それは古来から、本来の秘教的な教えの中では、それにとらわれず、忘れることがちゃんと推奨されてきたのだ。神秘体験を突き付けられて、「自分が知らないことをその人たちは知っているのだ」というような勘違いをして、カルトの犠牲になってはいけない。この世の中を説明することについて、ニセ科学の人の稚拙な頭で考えつくような話というのは、彼らが言うところの自由で囚われない発想とか、人類の想像が及ばない話とか言われても、実際には、ごくごく狭いパターンや思い付き、過去のコピペの範囲内にあって、本気で自然から学ぼうとしている人が得ることができる話に比べて、はるかに平凡でワンパターンでつまらないものだ。だから人類が積み上げてきた自然科学を学ぶということは本当に尊いことだと思っている。
でも、いろいろなものを失い、それに縋り付くしかない人やその人の人生というのももちろんある。彼らに対して私が偉そうに言えることはないが、せめて、古くから存在し社会との調整や妥協点をちゃんと見つめてきた、古い宗教を選んだ方が、まだよいと思う。そこにどんなに素敵だと思う人がいたとしても、既存の古い宗教のコピペでビジネスをやっているところとは、魔境に陥った人を放置したり、まさかそれを唯一無二の神秘体験だと喧伝するようなところは関わらないようにとだけお伝えしておく。
チコが私の夢に現れて、彼が子猫のところに向かうのを夢の中で自転車で追っかけた、その直後にチコ似の子を家族で保護した事件は、一見とても不思議だったが、まあ普通に偶然だろう(「チコの夢〜名前のない猫 」、チコの夢〜名前のない猫 #2 )。 チコ似の猫をAIに描かせるのを何回か繰り返しているが、猫のクオリティは高いようで細部を見るとやはりいろいろおかしかったりする。AI画の猫の絵は、かなりのクオリティを持っているが、でも、チコっぽい雰囲気でブレスレットの位置は逆だけれど、ちょっと驚いた。それでも、前肢やしっぽの位置など、動物の体を解剖学的に理解していない絵描きの画だなって思う。動物画家にとって、解剖学は重要で、それを知らないで動物画を描いた人は、ぬいぐるみみたいな動物しか書けなくなってしまう。しかしAIは解剖学がさっぱりわからなくても外見寸分猫と変わらないスーツを作って、それをかぶせることに成功する、そんなイメージだ。 この子の画は私の撮影したものだ。無事に飼い主のもとに戻せて、本当に良かった。
そういう「神秘」現象ならいくらでも歓迎するし、忘れなくてもよいのだ。
補足ー日本語版のWikipediaには「魔境」について、ほぼまともな説明が載っていないので、英語版(’makyo’)から翻訳転載する。多分日本語版は、これの数行の部分抽出をやろうとした書き手によるものだろうけど、端的でかつ重要な説明部分が全部カットされている。 「魔境とは、坐禅を実践する者が特定の段階で経験しがちな現象——幻視、幻覚、空想、啓示、虚妄の感覚——である。……これらの現象を現実だと考えたり、幻視自体に意味があると思い込んではならない。たとえ美しい仏の姿を幻視しても、それで自分が仏に近づいたわけではない。百万長者の夢を見ても、目覚めた時に実際に裕福になるわけではないのと同じだ。 」 ――安谷白雲(フィリップ・カプローの『The Three Pillars of Zen』pp. 42-44より) 魔境は個人の性格や気質によってさまざまな形をとる[3]。幻視や知覚の歪みとして現れることもあれば、無の状態やトランスのような没入状態として体験されることもある。禅宗では、こうした体験がどれほど魅力的であっても、真の悟りではないと理解されている。 人の知恵だと思う。 ジョン・大堂・ローリ(John Daido Loori)も『The Art of Just Sitting』[4]で同様の説明をしている。ローリは次のように書いている: 「坐禅中に、時に人々は『魔境』と呼ばれるものを経験する——幻視や幻覚、あるいは匂いや音として現れる。弟子たちは、特に『黄金の蓮華に座る仏』のような禅に関連したイメージを見ると、自分が悟りを開いたと思い込み、すぐに独参(dokusan)に行って確認したがる。老師は通常、話を聞いた後、『姿勢を正して坐りなさい。心配するな、そのうち消える』などと言う。普通の思考に執着するのも、悟りの考えに執着するのも、どちらにせよ執着であることに変わりはない。 」 ――ジョン・大堂・ローリ(『The Art of Just Sitting』p. 139より) 繰り返すが、魔境の体験は形を変えて現れるが、禅の老師たちはこうした体験を悟りの証とは見なさない。むしろ、魔境を悟りと同一視することは、経験への執着の一形態とされる。 ロバート・ベイカー・アイトケン(Robert Baker Aitken)は魔境を「妄想の一種」と表現した[2]。彼は、禅の瞑想以外でも魔境的な体験——天からの声を聞く、異言を話す、白い鳩の群れが体に降りてくるような幻覚、体外離脱体験など——が起こりうると指摘した。アイトケンは、魔境が人間の心の豊かな可能性に関心を持つ者には価値があるかもしれないが、自己洞察を求める者にはほとんど意味がない と考えた。 十分だろう。これを信者勧誘に使ってくるのは、加害的な勘違いカルトしかいないのは、理解しておく必要がある。
追記ー参考として、長きにわたってカルトとそのビジネスについて、闘ってこられた呼吸器発電さんによる良いまとめがあったのでリンクをつけておく。
内容は、宗教社会学者、塚田 穂高先生のツイート集。
追記ー書き損じていたエピソードを一つ。自分が主将をやっていた中国武術のサークルで、とある瞑想教室に初参加したメンバーが、目の前にいきなり鏡が出現してその中から自分が自分に話しかけてきた(という幻視を見た)と言っていた。そういった資質を持ち、特定の環境を与えられると、普段でも幻視体験が引き起こされるというのは、そんなに特殊なことではないという、私自身の感覚の材料にもなった。そしてもちろん、まともなグルなら、その体験を忘れるように言うし、その瞬間があまた生まれているへんちくりんな「新興宗教の教祖様のまさしく生まれる瞬間」でもあることを知っている。彼女のグルはまともな人だったため、問題なかった。大体新興宗教の教祖様が生まれる瞬間は瞑想中でも特異な反応や運動が出ているのですぐわかるそうで(悪用されるのでここには書かない)、「そういう時にはどうするのですか?」って訊いたら、「まあ酷そうなのはその場でぶん殴る」って言っていた。このあたり放置する瞑想マスターは逆にかなりやばいか無知か、その両方の可能性があると思う。
新興宗教で特に危ういなと思うタイプは、そういった幻視体験を特別な選民であり、特殊な能力を持った選ばれた人間だと教祖自体が思い込んでる、あるいは思い込ませるどうしようもなさがセットになっている。古い宗教が持っている神秘体験に意味を持たせないという知恵とは真逆に、しこたまその体験を盛るのが常なので、速攻で距離をとるべきであると考えてる。
繰り返す。「魔境」を信者集めのコンテンツに利用する新興宗教は危険で、それを指摘できない「識者」と呼ばれる人たちも何もわかってないか、あるいは同様に社会にとって危険である。
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