義母の母,義理祖母の形見にあった紡ぎ糸,機織りして貰える方が見つかったという話で,カーナビにその方の住所をインプット,義母を連れて行きました。もちろん,それであっさりお宅が分かるわけではなかったので,近くのラーメン屋さんに飛び込んで,住宅地図を借りました。出前をそこから摂られるようなお宅ではないと思ったとおりラーメン屋さんはご存じなく,でもちゃんと地図に載っていて直ぐ近くだと分かりました。
大島紬の機織りは,終戦直後1950年代から60年代ぐらいまでは,高額収入が得られて,一引き(着物と羽織1着分が製作できる単位)あたり,15万円ぐらいが相場だったときがあったそうです。最盛期,いくつもの紬工場があって,女性たちが寝る間も惜しんで織機を動かし経済を支えました。奄美大島の離婚率は,その頃,かなり高かったという話を聞いたことがあります。女性が腕一つで紬を織って食べていけたからということのようです。
現在は,大島紬の産業面へのテコ入れや,観光戦略との抱き合わせ戦略を導入してきた結果,一時期の繊維不況の時代に比べると認知度は上がっていると思いますし,相場も落ちきってはおりますが,質の良いもので一引き5万円ぐらいが相場とのことです。
大島紬では,藍染めや様々な染め方も使っておりますが,絹糸を紡いで太くしたもの=紬をテーチ木(シャリンバイ)染めと泥染めを繰り返し,これを使って織り上げたもの(泥大島)が基本かつ最上のものとなっております。
飛び絣が運ぶ絣糸の妙がその紬の特徴となります。詳しい解説は,
ここなどにあります。ググったらいっぱい出てきますね。また,現地方言で紬関係の言葉は非常に沢山あり(
たとえばここ),文化の深さを感じますね。
ググっても出てこない話を少し。近年,天皇陛下が奄美大島においでになりました。その警備陣のお陰で黒糖酒が島から暫く消えてしまったという話は,以前書いたと思いますが,そのときまで,大島紬はフォーマルな場に着ることが出来ないと言うことになっていました。しかしながら,宮内庁側は,非公式ではありますが,大島紬を着用して良い衣装として認めたのです。というか,これは,聞く話によれば某茶道関係者のフォーマルウェアから紬を外した決定そのものがそのアンチフォーマルウェアに大島紬を位置づけてしまったという経緯があったそうで,目の玉が飛び出るような値段の付いた「遊び着」としての立場に甘んじなければならなかった原因はそこにあったそうです。
フォーマルな場に,紬をオプションに入れるのも悪くないのかも知れません。
ちなみに,義母の持ち込んだ形見の紡ぎ糸は,漆黒の髪の毛のような染めのものなど数引き,誠に見事なものでした。包んであった,タイムカプセルのような新聞紙は,昭和44年のものでした。
奄美に数え切れぬほど行って,個人的にも浅からぬ縁が出来ておりますが,私が持っている大島紬製品は,残念ながら名刺入れだけです。しかし,普段身につけるようなデザインのものが無いというのも,その理由ではあります。これを普段着や仕事着に出来るのは,義母のような,島文化が身に付いた人だけというような気は致します。
以上 Canon EOS Kiss Digital N, Canon Lens EF 50mm 1:1.4
長男と紬の織り姫のツーショットを載せられないのが残念です。因みに彼女は,12歳の時から織機を動かしていたマイスターで,今年,喜寿になられます。
この織機がマツ(リュウキュウマツ?)でできているというのも,今回初めて知りました。他の樹の材だと駄目だそうです。まさしく,奄美文化。