人殺し,猫殺し 2

人殺し,猫殺し 2_b0060239_2248482.jpg
秋になろうというところで,夜長に駄文を重ねます。
 娑婆気を読んで,生き物に対して,むごいことができる人がいることにただただ驚いたりするのです。
 余り分析を加えても,見も知らぬ人間のことを分かるわけではありませんが,生物と関わってきた人間として少し思うことがあります。
 一つには,生き物についての想像力のなさみたいなものがあって,こういう人はそもそも生き物を飼うことに興味を持ってはいけないと思ったりするのですが,パソコン買って使ってみるとかそんなレベルで,生き物に手を出す人が結構いるようです。パソコンなら,飽きてほったらかしにしても死んだりしません。いや,考えようによっては「死に」ますけど,生物的な死は最初からおきようがありません。
 分からないけれど,上手く飼えなかったらかわいそうという想像力や感情が出てこない人間なのかも知れません。あるいは,十分もがき苦しんで死ぬところを想像しても,胸が痛くならないと言うことかも知れません。何かが欠落しておりますね。
 でも,そういう人,良いおっさんにも少なくありません。社会的に適応しております。異常でもなさそうで,良い上司と慕われていたりします。ムシやその辺の鳩の死にも,何ら痛みを感じない人は普通にいますが,それが,猫まで拡大されているということだと思います。




 じゃあ,なぜ飼うのだろう。そのあたりがさっぱり分かりません。ゴキブリを飼ってみたくなって,餌やるの面倒くさくなってそのまま掘っておいたら死んじゃった。これぐらいだと常識人の範囲です。極悪非道とか思われたりしません。おそらく,彼らにとって生き物って,大きな枠組みの中でしか捕らえられないのです。普通の方でも,生き物が嫌いだっていう人がいますが,それってもの凄い大きな枠組みですよ。自分も含まれるくらい(笑)。
 で,本人にしてみれば,コミュニケーションを交わせられるくらいの高等動物でも,ほとんど差がないのかも知れません。猫まで来たら,人間まで直ぐだと思うのですが,こういう人に限って,自分の家族や娘はある程度までは大切にできていたりする可能性がありますのでややこしい。
 それはおいておいて,いろいろな学生にネズミの世話をさせたりすると,各自の感性というか,プロセスが面白い。

1)最初から正常で,可愛がって面倒も一生懸命やるもの。
2)最初少しおかしいけど(餌何日もやらずに平気で殺しちゃったり。「あれ,だめだったんですか?」って),やがて自分がとんでもないことをしていたと理解して,ネズミにも愛情を持ち始め(本人は最初からそういっているが明らかにやっていることはずれている)1)と区別ができなくなるもの。世間的には「成長」というんでしょう。
3)最初から最後までまともに飼育できず関わり方がおかしいもの。

いろいろおります。

 動物と関わるべくして研究室に入ってきた学生さんには,さすがに3)はおりません。いたとすると,これは学力だけでそれ以外の要素を全く考えずに入ってしまった方というどころの騒ぎではなく,既に異常人として進学,就職とも教授が頭を痛める存在だったりしますので,サンプルとしては特殊です。で,こういう人が何を間違ったか,猫が飼いたいと思って飼うと・・・・何が起こっても全然不思議ではありませんな。

 少年時代に,特に生き物と関わるような機会を持っていないと,生き物が死ぬと言うこと自体を理解できない人間は普通に形成されます。されますが,さりとてそれが動物を飼う感性を養うための必要条件かというとそうでもなかったりします。逆に少年期徹底的に少年の残酷さで酷いことをやっていて,むしろ人一番優れた生命観の持ち主である人など山のようにおります。
 はっきり言って,子供はどんなに動物好きでも,大抵は2)です。痛みや叱られたりした経験(そのときは大抵叱られている本当の意味を理解できないけれど)を通じて1)となると思います。それが,大学生ぐらいでも普通に2)であったりするのは,驚くべきことですが,身近に動物が居てもあんまり関係ないのは,動物に対する責任を学ばない仕掛けを親の方が作ってしまうか,もしくは親自体が持っていないからではないか,いずれにしろ動物と関わる根幹を学ぶ機会がなかったからと想像します。これは,今時の若い人がそうだということではありません。現に,とんでもない飼い方をして大量の犬猫を抱え込んで,本人は動物好きだと言い張って,可愛がるつもりで虐待死させている中年や年寄りは少なくないのです。
 生き物に対して責任を全うできないというのは,少なくない子供で普通に起こりえることだと思います。そういう人が一応働いてお金を貰って部屋を借りて,猫を飼う。ほったらかしにして,衰弱して餓死させる。起こりえることではないかと考えます。

 ただ,一緒に暮らしているわけですから,生命に対する感性を働かせるように学習する機会が無いわけではないのですが,その機会を与えられても最後まで猫が自分と同じ生き物であるということが理解できない「生命観音痴」かも知れませんね。部屋にいても猫との関係は,本人はそう思っていないでしょうけれど,とても希薄でしょう。本人は,「俺,猫かってんだぜ」などと女の子に受けるので話すかも知れませんけど。
 一緒に暮らしても,自分の誤った生命観,「猫」感に修正が生じない感性の持ち主ということになるでしょうか。幼児といって良いほど,その中身は幼いでしょう。言葉を紡げるとしても。多くの境界型人格障害者の方の言語能力はもの凄くたかかったりします(だって,それが唯一鍛え抜いた武器なんだもん),相手をたたきのめせるありとあらゆる言葉を紡げますが,オウムに侵略されそうになった熊本県の村のおばあちゃんが叫んでいたように,「わしゃ,長く生きとるからあんたたちのことばが嘘だと言うことが分かる」というように,理屈ではなく知恵でしか間違っていると指摘してあげる必要があると思います。知恵は理屈の上に立つ必要があります。科学的な問題以上にこういう話は,突き詰めても分からないことの方が多いのです。いや,これは方便なんですが。

 1)「なぜ,人を殺していけないの。」

私のなりのつたない回答は,いささか「科学遊び」が過ぎましたが,前のアーティクル「人殺し,猫殺し 1」で書きました。

 2)「なぜ,猫を閉じこめて死なせちゃったらいけないの。1)みたいに,そんなに人に迷惑をかけてないでしょう?(ホントかい?) 何でそこまで酷いことしたみたいに言われなければならないの?」

 私は,ただうなり声を上げて,全身全霊で抵抗したい相手にはそうするのみです。本来は,人を殺していけないのかという話もその感性で否定して良いと思っております。でも,理屈で説明できないと思われるのもしゃくですので,一つ前のアーティクルで一生態学徒としての回答を書いてみました。

 猫殺しですが,本人は,いろいろ偉そうなこと言えるのですが,根本的に生物と関わる場合に育まれるべきものが欠落しているように感じます。そのこと自体を,そういった感性に関わるコミュニケーションの少なさから自覚していないのではという気もします。あの直木賞作家のように。この話題,世間から既に忘れ去られようとしておりますが,私は,科学者としてのトレーニングを積んでおりますから,とてもしつこいですぞぉ(笑)。
 一定の大きさの動物を殺すのは,普通の人間は相当な抵抗があります。彼女の感性では,生まれたばかりの幼獣は,卵巣を取り除くことと同じなのだという勝手な解釈ができているのかも知れません。その感性を相対化するものを彼女は持たなかったのかも知れません。そして相対化する必要がない,自分の感性は一般には受け入れられないのだけど真実があるのだという免罪符を勝手に自分の言葉で作りだせるという勘違いをしたのではないでしょうか。

 さても,そういう人は,なぜ猫を飼いそして殺すのでしょうか。というよりも,なぜ猫を飼いたがるのでしょうか。そのように殺してかまわないという感性の持ち主が猫を飼いたがることの方が,私には分からないというのが本音です。
 猫と一緒に幸せに暮らす能力がない人とは言いませんが,努力できない人は,やはり,猫と暮らすことを諦めて欲しいのですが,この我慢できないと云うろころに本当は問題があるのかも知れませんね。ゴミを拾い続けて,ゴミ屋敷になる方の行動特性と似ているような気がします。妊娠して生まれてくる子猫を次々と海岸から放りすてて殺す。痛みを受け止めると言い張って,それでも猫に避妊手術をせずに飼い続ける。また妊娠する,生まれる,投げ捨てる。似ています。彼女の投げ捨てた猫は,数ヶ月を待たずに生きながらえていればナッチ,ユッチのような,どうイチャモンを付けようが猫が好きで飼っている人には可愛くてしょうがない猫になるのですが。それは,「卵巣ちゃん」を摘出して「殺す」ことと同じことなのでしょうか。あるいは子猫をむんずと投げ殺す方がましだと言う理屈で納得できるのが,私にはどうしても理解できないのですよ。本人が猫になど興味もなにもないどころか,嫌いだというなら理解できるのですがね。皮肉を込めて云えば,卵巣の卵一粒一粒に子猫を見るのであればとても私なんかよりサイエンティストだなぁ。パラドキシカルです。いや,ちょっとスピリチュアル系勘違いのような,子宮至上主義を感じます。子宮は子猫の命より重い。しかもその子宮,生み出した猫は,殺される運命にあり,実質的に子猫を産み育てることにはならない。そうか,彼女のような不可抗力で死ぬのは,子宮の働きとは関係ないんだ。猫の子宮=私の子宮だけど,猫の子供は私の子供なんかじゃない。なんて都合の良い感性。彼女の云う痛みって何だろう。ただの動物虐待馬鹿ガキよりも,よっぽど始末が悪いように思えます。
 何匹も犬猫を家の中に取り込んで,手に負えなくなるほど繁殖させてしまい,ケアもできず,結果的にさんざんな虐待をしておいて,避妊手術を勧めると「そんな,かわいそうなことができるか!」と逆ギレを起こすいい年寄りが各地で問題になっておりますが,あのタイプの感性をお持ちの方の変形バリエーションのような気がするのは私だけかな。ご自身のご立派な感性で子猫を殺しているだけですな。何の理屈にもなっていない。

 別にその方が猫を殺しても誰も困らないと言い張るなら,別にその方が猫を飼おうとしなくても,誰も困りませんから,猫に関わらないでもらえると嬉しいな。好きとか言わなくて良いから。

追記ーおそらく,かの女史は,a')一緒に暮らしたら猫は家族同然という感覚が本当は理解できない人なのかも知れないし,a)逆に猫=家族に等しいと感じているのなら,b)家族の産んだ赤ん坊を投げ殺す方が,b')子宮を摘出するような「ナチスドイツ」のやったアナトミー手術や非人道的な手術と「同じ」子宮摘出手術を施すよりましなんだという,感覚がいかに,「家族」に対してとんでもない選択であるのかということと矛盾する。その気持ち悪さ,違和感を感じるのです。
 結論は,だから,おそらく理屈こねているけれど,どこかで嘘をついているとそう感じられるのです。
 それはa)家族同然に感じているが,b')となることが,多くの一緒に猫と暮らしたことのある人には理解できない気持ち悪さということなのです。
 それが,彼女の理屈では,人間の操作により子宮を摘出するような傲慢なことをやるくらいなら,「痛みを感じながら」子猫を殺す方が,本当は本来的な原初的な人間の営みの中では,正常なのだ ということで,「高尚な人間観,生命観」により矛盾無く説明できると判断したのではないかとおもうのです。
 でも,実際は,これは,いいとこ取りなのです。テクノロジーを受け入れなければ,人間の傲慢な操作を受け入れなければ,死ぬような選択肢に直面したら,この人はそうするだろうか? 何よりも,猫の子宮摘出=ナチスドイツ というような,中途半端な擬人化で猫を見ている一方で,ゴミを捨てるような作業で弔うこともなく子猫を殺す。そしてそれをエッセイに書いて金を貰う(しかも経済新聞に掲載)という,今の俗世の仕組みの中で金を稼いで生きている人間が,偉そうに説明してやって良いことかという,違和感,気持ち悪さなのではないかと思うのです。
 表現者は,しばしば傲慢です。また,自分が感性が鋭いと思っているので,しばしばとんでもない勘違いをします。それは,本人の個人的な体験で終わっているのならばそれでおしまいですが,表現の結果については,そのまま受け入れねばなりません。舌足らずだったと説明するのも良いでしょうけれど,やるべきことがあるのではと思います。それは,そのまま批判を受け入れることです。別に本人がやり方を変える変えないは別問題です。
 こんなことがありました。私の友人が,奄美の山中にある声楽家を連れて林道を走ったのです。奄美の多くは,かつての基幹産業である枕木取りによる自然林の伐採と,開発圧による林道整備により,自然林などはほとんど残っておらず,実際のところぼろぼろの場所が多く,特に何ら生物の息吹を感じない林がちょっと有名な保護値だと喧伝されているものですから,そこを走り回ったのです。自然体験が豊かな人だったら,ああ,ここまで酷いことになっているのだなぁという感覚を持って終わるはずですが,その方は違いました。およそ本土でも林などにまともに入ったことがない彼女は森林からいろいろなものをたくさんインスパイアーされると,歓喜して帰られたのです。それはそれで幸せなことだと思います。ただ,それは個人的な体験としてとどめて自分の芸に昇華されれば何ら問題はないのです。しかし,もの凄い素晴らしい林で自然体験が可能な林だったと,その体験を普遍化,過剰一般化するようなことがあれば,それは批判を受けてもしょうがないのだと思います。ご飯で云えば,もう少し美味しいものを食べる体験を積んでから,その分野は表現してくださいということです。カップヌードルを食べて,これは今まで自分が食べた食べ物の中で,最高の至福を与えてくれたとグルメ雑誌に書けば,それはそれで,その人の世界観が未熟だったからで,批判が出ればそれを受け入れるだけだと思います。
 直木賞作家であろうが,全ての世界を理解できるわけではないです。働かない音痴の部分もあるでしょう。彼の女史の言葉には,スピリチュアルな部分で偽装した自己欺瞞を見てしまうのです。何ら真実など無いと感じるわけで,少なくともそんなくだらない屁理屈で子猫を投げ捨て続ける彼女の自己正当化論は,論駁しておかねばならないと思う次第です。
 言霊の世界で飯を食っている表現者なのですから,言霊でしか対抗できないわけです。言語弾圧なんて冗談でしょう。どのようなことを表現する自由に対して,その表現に対して,正面から批判しようという考え方まで押さえるのは,矛盾します。批判が巻き上がると,全部一緒くたに言語弾圧だという前に,批判の内容についてはちゃんと整理が必要ですね。

 二十年以上前,ある離島で,子猫を埋めて殺しているという人に会いました。避妊手術など施される余裕どころか,獣医師字体もその島には住んでいないのですが,猫は恋をして生み続け,増えて困るので,誰も手を汚さないから俺がやっていると,その人は少し悲しそうに云いました。
 でもその人は,今居る猫との生活を守るため,子宮摘出なんてナチスドイツのやることと同じだなんて,ましてや,俺は猫が大好きで,今居る猫を大切にして暮らしたいのだからしょうがないのだ,なんてことは,間違っても言いませんでした。酷い話ですが,牙をむきだして全身の毛を逆立てて抵抗するような矛盾はありませんね。
 彼の表現の方が,よほど,人としての感覚に立っている誠実さを感じます

以上。
Commented by Lilywhites at 2006-09-22 23:31
政府からも告発の動きがあるようですね。 作家というはフィクションの中ではタブーのやり放題で、サド侯爵以降の先鋭的な作家は似たようなことを虚構の中で実験的に行ってきました。 しかしながら、これらは実にまっとうな精神の持ち主であるからこそ試みる精神的な実験であるので、本当にやったら変○、殺人者ということになってしまいますよね。 作家だから比喩としての事柄ならいいんですが、実行したらもはら作家である資格などあるはずもありませんね。 避妊こそ云々って発言しているようですが、もう支離滅裂で...。 殺すことが目的にさえ思えてしまって...聞くに堪えないです。 
Commented by beatlose_z at 2006-09-22 23:57
仕事で小学生と関わってますが、彼らの虫に対する感覚はおもちゃ同然な感じです。
捕まえてきて、飽きたら餌もやらず可愛がりもせず、死んだからといって何もせず、大人に言われてしょうがなくゴミ箱に捨てる。
弔うという行為がかけています。
小学生だしこれくらいなのかと思いますが、いささか度がすぎるような・・・。
自分が小学生だった頃は虫や金魚が死んだらお墓を作ってやるくらいはしてたのになぁと思い、気が付いたときにはお墓を作って埋めてやります。
C_Cさんに生命について、動物についての話をしてもらいたいです。
まだまだ自分が伝えるには知識も経験もないので・・・(猫の死にもまだなので・・・)
Commented by complex_cat at 2006-09-23 00:13
Lilywhitesさん,情報とコメント助かります。私も,こういう問題,簡潔に整理して考えられる方ではないので,無謀な航海みたいなものと思いつつ,自分自身の覚え書きとして,アーティクルを立てました。一番の問題は,双までして彼女が猫を飼い続けている理由が,猫と暮らしたいからという風には思えないのですよ。彼の地で,彼女なりのデザインされた暮らしの中のエッセンス,調度品のような扱いではないかと思うのです。変化を嫌う感性では,動物とつきあえません。生き物は変化しますが,それは,彼女の想像の中で組み立てられる構造には,填ってくれないからです。彼女は,無常観にかこつけながら自分が許したくない変化を排除しているように思えるのです。
Commented by complex_cat at 2006-09-23 00:34
beatlose_zさん,お墓を知る子供が減りましたね。死生観が育まれないので,危険なところもあるかも知れません。死ぬと云うことで,自分と他の生物との共通点を見いだせる機会を今の子供は逸しているのかも知れませんね。殺したり,残酷な行為をするのは,生命を感覚として理解する上で必要な子供は普通だと思います。そのまま,病気だったりする子供と判別が付きませんが。「禁じられた遊び」でお墓作りゲームが加熱して,マフっとひよこをたたきつぶすシーンが思い出されます。
 分析は,児童心理学者に任せて,自然の中で,オタマジャクシ取って叫び声を上げて・・・そういう日々を子供達が過ごせれば,百の理屈などへのようなものだと思います。人類が,決して知識として頭で子供に教えてこなかった領域です。体験が消失した場合,何かで補わないと,危険な子供も中には出てくるでしょう。
Commented by kyoko_fiddler at 2006-09-23 00:38
かの作家女史については、理解しようという試みを放棄しました。彼女もまた、「排除」したい人でしかないですが。告発されて裁かれるなら、ハンムラビ法典を根拠に科料願いたいと思うのです。彼女の想像力のなさを、彼女自身に思い知らせるためにではなく、わたしの溜飲を下げるために。
私刑でもいいぞー!
Commented by complex_cat at 2006-09-23 01:02
kyoko_fiddlerさん,失礼ながら,かの作家女史は,私には,化け物に見えます。猫たちは,彼女の金を生み出す素晴らしい「感性」の犠牲と云うことのようです。大量の猫を抱え込んで信じられない飼い方をしていて,避妊手術を進めると,そんなかわいそうなことができるか!と逆ギレする,爺,婆と同じだという気がしました。都合の良いときだけ,猫の子宮=私の子宮なんですね。猫の子供=私の子供じゃないんだ。素晴らしい感性です。ナチスまで飛び出す子宮至上主義がオカルトっぽくて,面白いです。
Commented by kyoko_fiddler at 2006-09-23 01:12
きっと、かの女史に「飼われている」犬猫たちが、静かにTorikoro-suのではないかと思います。オカルト作家さんに対しての最高の返礼ではないでしょうか。
Commented by complex_cat at 2006-09-23 01:44
通常,批判すると,ヒステリックな言語弾圧扱い,表現の自由への挑戦とか云われかねない分野に関わりたいとは思わないのですが,一定の評価や理解を示される方もいて,そのことは良いのですが,こういう考え方もあるなんて扱いにされるのは,彼女の立場もあって危険と感じました。
  kyoko_fiddlerさんが最初に仰られたように,このやりかたを人間に適応したら理屈どうなるのかいと云うところですね。人間の子宮ならご本人の子宮そのものでしょうから,そのまま赤ん坊投げ捨てか。手術でしか避妊できない犬猫と話が違うと逃げそうだな。ならば,避妊具の行き渡らない開発途上国なら赤ん坊投げ捨てに正義があるのか。やはり,どこかで嘘をついているな。理屈にならないもの。
Commented by einnonti-H at 2006-09-23 18:07 x
完璧なアーティクルにて余談を挟めません。
幾百の同種コメントより抜き出ていると思います。

かの女史は「売名行為」に近い可能性すら薄ら見えてきます。
そうゆう意味では「作家」ですが。ただ「作家」が何をしてもよい、
というわけではないです。これを掲載した某社も確信犯かと。
Commented by complex_cat at 2006-09-23 21:18
einnonti-H さん,前回ニュースになったときから,書き始めていたのですが,全くまとまらず,でも吐き出さずにいると気持ちが悪いのでアップしたのですが,完成度が低くお恥ずかしいかぎりです。
 私の分野にも,ほら話どころか学問分野の理解において有害ですらある著作で知られた女史がおられます。ある著名な生態学者がとどめの批判文を書きましたが,既にほとぼりが冷めてよみがえっております。言霊でめしを食うなら,不実な言葉を発したら,それくらいは,覚悟せねばならないと思います。
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by complex_cat | 2006-09-22 22:25 | Oracle of Cat King | Trackback | Comments(10)

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