人気ブログランキング | 話題のタグを見る

タダシイ掟

タダシイ掟_b0060239_2173720.jpg
イジメと子供の死についての報道がたくさん聞こえてきた一週間でした。このブログでは,環境問題や自然にコミットしていない限り,余り社会的な話は取り上げないようにしています。
 でも,生物としての人の正しい掟というものがあるなら,それからずいぶん逸脱した異常な事態が生じているように感じます。

 教師に関わる非常に乏しい体験からの話なので真理ではないかも知れませんが,本人は相当な目にあって,しかも,絶対に誰にも言わないからいじめられているのか,ちゃんと話してごらんって言っても,言わないのが普通だと思います。1)いじめられているのは自分に問題があると思っていたり,2)誰にどう話そうが絶対に解決できないと思っていたり,3)親や先生に話して,良い方向に動くとは間違っても思えないからだったりするからだと思います。イジメの実態を掴もうとする先生サイドのリサーチでも,本当に難しいのです。見事に生徒全員が演じ分けます。それが分かっていても,結局マスコミで問題になると話してくれるような話が,全く出てこないのです。誰だってその石を投げたときの波紋の行方が分からないので,躊躇すると思います。
 悪意からではなく,学級崩壊児童の二面性の演じわけと似ているところがあります。子供は相当追い詰められているにもかかわらず,少なくない親が,ころっとだまされます。
 だから,一旦子供がそのことをカミングアウトくれたら親は死ぬ覚悟で頑張らねばならないわけですし,最後は笑って終われるようにしなければなりません。そうしないと,言わなければ良かったと子供は予想したとおりになったとますます追い詰められるものと思われます。

 画像は,シカ調査中に見つけた,頭部だけの死体。残りは,タヌキ,ノイヌなどに持って行かれたものと思われます。こういう画を見せて,自然界の厳しさとか弱肉強食とか薄っぺらなことを未だにNHKも含めて,馬鹿の一つ覚えのように繰り返しておりますが,一種の思考停止的な表現のような気がして,また,野生動物を何も知らない40年前の人でも書けそうなそのナレーションに,いつも,アホくさと思ってしまいます。
 自然界では,基本的にどのような死にも無駄なものはありませんし,そもそも生き残ったものが自然界では強いとか,あるいは,個体間競争と種間競争,食うものと食われるものの関係がぐちゃぐちゃになったまま「強者」という言葉を使うのは,全く科学的でないばかりか,ここ数閏年の生態学の急速な進歩の,一番美味しい,楽しい部分について,何にも知見を入れていないとしか思えないのです。いや,その話じゃないや。今回のアーティクル,全くの書き殴りで,整理などされておりませんが,それでも良いから書き残しておこうと思います。
 なぜなら,いろいろなことを忘れてしまいそうですから。



 では,理不尽な子供への攻撃に大して,どうやって親は戦うべきか。私にも明確な答はありません。本人に致命的な問題があれば,そこは変えていく必要があることも確かですが,私も含めて,社会的に適応しているはずのいい大人でも欠陥のない人間など居ませんので,通常は,直す部分など無いと言えます。そのままではいかんという場合は,人格障害的な問題の場合だけです。そちらは,簡単には直せませんから。

 長男,1年生の時,彼の名前でクルマに傷を付ける悪戯が,数件ありました。それと前後して,彼をからかったりいきなり突き飛ばしたり,泥だらけになって帰宅してワイフがびっくりなどという事件がありました。クルマの修理など,対応が結構大変でしたが,ありがたいことにPTA関係が強力にフォローしてくれました。爺ちゃんである私の父は,こっちに住んでいないため,なんの政治力もコネもありませんが,可愛い孫のため,いざとなったらあらゆる手を尽くす,教育委員会にも乗り込むと,半ば喧嘩気味になりました。
 結局,PTAサイドは,息子自体がやっていないのだという立場に立ってくれるわけでもなく,「誰だかわからないけれど,よくある悪戯」レベルのまま沈静化しました。こういう,何となくファジーに決着を付けるというのは,私は集落組織にある,一つの知恵だと思います。
 まだ7歳の長男は,そんなことが起きて先生方があわただしく会議をしているなどということは,全く知らされないし,分からない状態にあったのですが,それをネタにまた何か言われる状況が出たときのことを考えました。そういう彼を貶めようとしている人間の存在を伝えるかどうか悩みましたが,伝えて「父さんと一緒に戦おう」ということになりました。彼が強くいたって冷静だったので,助かりました。危ないおとうさんは,「誰か分からないが,二人でとっつかまえて,口の中にパンツを押し込んで川にたたき込もう」と言ったら,息子に,「お父さんそれ,犯罪だよ」とたしなめられました。

 その後,別に一件,で都合3回。最後の分はクルマの傷にはなりませんでしたが,二回目の事件が起きたとき,私が何をしたか,既に忘れかけています。良い性格ですが,記事を書こうとして思い出しました。
 毎週日曜日,近所の公園に遊びに出てくる,今時,奇特な少年達10人余りと私が仲良くなりました。彼らは,今時珍しく,多少の縦社会の関係も維持しているようです。幼児期は外で遊びたがっても,大部分は,家でゲームやったりビデオを見ているでしょうに。公園でカードゲームや携帯型のゲームをやっている子だっていますが,それだって珍しい方でしょうか。
 そこで私は,公園で中国武術を毎週演舞したり写真を撮ったりして,興味を持った子供と話をするようになったのです。運良く,丁度,偶然同じ系統の中国武術を練習する青年と出会うことになり,彼と私とどっちが強いかとか,父親がプロのボクサーだった少年とか,意外と武術を習っている少年・少女がちらほら居て,格闘技・武術の話で少年達と私は毎週盛り上がりました。ちなみに,その青年はお爺さまが居合いをやっていて,それと大陸で習った某中国武術とを融合をテーマにされておられたというのが,後で分かりました。青年の居合いの演舞の歩法と動線とリズムを見て,もしやと思って話しかけたのが縁でした。
 調子に乗って少年達に棍やヌンチャクの振り方教えたり,プロテクター持ってきて,いわゆる0インチパンチで少年を飛ばしたり(これについては,息子で何度か練習していたので怪我をさせないような手加減は分かっていました),まぁ,むちゃくちゃやった部分もありましたが,まだこちらは変に目くじら立てる大人が少なかったのもありがたいところです。これについては,私は今考えると,長男が食らったのはちょっとしたトラブルだったのかも知れませんが,本当に,親として必死だったのだなぁと思います。当時の画を見ると思い出されます。

 全くの無手勝流で,大して根拠があったわけではないのですが,同じ小学校に通う少年達とコンタクトをとらなきゃと考えたのでした。それも,なるべく上の方の学年と。  私がマジシャンだったら,公園でマジックを熱演したでしょうし,演奏家だったら,楽器をそこで弾きまくったと思います。世代を超えたコミュニケーションを図れる場というのが,実際は今は難しいのがよく分かります。普通の大人は,学校から説明がない限り,少年達の世界について何の情報も得ることは出来ません
 そこに飛び込んできた少年たちは,私にとっては十二使徒みたいなものでした。

 そうそう,公園で1対1で決闘してやられた子を,やった子も含めて何人かで私の家までやって来るまでになっていました。「おじさん,ちょっと氷無い?」と呼ばれて,嬉しくてひゃあひゃあ出て行って,手当てするまでの仲になりました。この事件については最初は二人とも一緒に遊んでいたのですが,ちょっとしたいき違いで,後で長男を可愛がってくれた野球部のキャプテンで体格もよく,非常にしっかりした少年が,怒って突っかかっていったのです。相手は「小学校一の喧嘩の達人」とのことで(今時,そのようなキャラの少年が居るなどとは人材豊富),その「達人」の反射的な一撃で,見事に顔面血だらけになって年相応の少年らしく泣きじゃくったまま地面に転がっていました。やった方はさすがになれているわけで,相手が来たから,こうなった(後にその見事な頭突きを見ることになりますが)と悪びれることもなく,その後,彼らは一緒に遊んでいました。その鮮やかさには,少年時代,そういった荒っぽいちびっ子ギャング時代を多少は経験している私も,かなり感動したことを覚えております。

 そして2年生から6年生までの彼らが,長男の護衛団and私の目になることを買って出てくれました。少年は少年たちに守られるのが一番です。
 それで,手が出しにくくなったと思ったのか,以来,何事もなく2年が経過,沈静化しました。程なく,長男が「空手,習いたい」と言い出しました。誘導したわけではないし(一番の動機は,仲の良かった友人二人がやっていた),私のものとはリーグが違うのですが,私の師,二人とも,中国武術のすさまじさを私に教えつつも,「日本の空手はなぁ,本当に強ぇんだ。これに対抗できる武技は,漫画の世界と違って中国でも本当に少ないのだよ。」ということを教えてくれた方々です。また,当時,故大山館長とも関係のあった空手家の方とメールをやりとりをしておりました。そのこともあって,自分がまともに関わることがなかった空手の分野の入り口に立つと言い出したことがとても嬉しく感じました。続ける続けないは彼に任せますが,彼がフルコン系の黒帯をとるまで,私の中国武術でずっと組み手の相手が出来るかというのが,実は,密かなチャレンジでもあり,楽しみであります。
 私の方はマークした少年を覚えています。何かの拍子に再発するかも知れませんから。中学生になった今も,彼らと会うと,今では当時のように「よっ」とハイタッチで挨拶することはありません。ちらっとお互い目を合わせたら,一言と二言は話しかけてくれます。未だに変なおじさんだと思われていることも確かですが,こういう流れの方が自然でよいと思います。

 味方を作る。情報をくれるネットワークを作る。必要な人間を見つける,あるいは必要な人間を連れてきてくれる人間を見つける。昨晩,某応用工学生態の分野のフォーラムと重要な飲み会があって,分野で引っ張りだこの先生と飲みました。環境保護で仕事を進めようと思ったら,しっかりとこの点が出来るかどうかと言うことを再確認をしましたが,結果的にこのセオリーが上手くいった例でしょう。別のパターンでは,こうはいきませんし,中高生になれば,まず,親が同じ学校の少年と接点を持つなどということは殆ど不可能です。親がとれるオプションは限られています。

 昔もイジメがあったのはその通りですが,今と何が違うのか,ずっと考えています。
いじめられても救いのない孤独感,孤立感,無力感,自分の存在の全否定をされているような状況に陥ることはなかったと思います。それは,いじめる方の側にも,そこまで破壊的な力を相手に行使できないなにかがあったと思います。そのため,いじめるけれど,よってたかって存在自身を滅しようというような信号で包囲するなどというレベルのものではなかったかと思います。
 一時期話題になった「ゲーム脳の恐怖」の中身は殆ど「トンでも本」であるという評価がされています。ゲームやったからおかしくなるとかないのだという意見はもっともな部分もありますが,暴力は学習される行動であるという一面があることはこういう話の時になぜかされていないのです。それが,例えバーチャルな世界であっても。というよりは,今はその境界を意識できないレベルを目指したゲームの世界が理想とされているのは当たりまえで,どんどん進んでおります。
 身長180cmを超える主将という立場を与えられた少年が,自分よりも圧倒的に体力で劣る小柄な少女に対して,ゲームのやられキャラのように,しつこくしつこく,手加減抜きの暴力を食らわしていた状況を見ると,まるで格闘ゲームの世界そのままの破壊行為です。こういう輩に何も考えずに人を破壊する技であった世界を教えるなどというのでは,武道の世界も危ういと思います。もしも,マスコミで伝えられている話がその通りだとしたら,これは,イジメではなく,人格障害的な行動による人体への破壊行為=殺人未遂だと思います。武術的要素があれば,戦闘時,行っちゃうことはある意味当たり前であるからこそ,冷静な心的制御が必要になります。もう一つ言わせて貰えば,武術と違って,命を奪うことを目的としないルールのある格闘技では,絶対に,狂ってはなりません。武術家は動くときは「静かなる発狂」を旨としますが,そういう意味では,今の日本,なりたがる人はまずいないでしょう。私の師は,格闘技と武術は間違っても同じにしてはならないと繰り返し言っておりました。私もそう思います。もちろん,件の話は,格闘技でも武術でもなく,胴衣を着たただのリンチに過ぎません。
 その垣根を曖昧にする上で成り立っては困るような世界にあっては,高邁な武術精神と心的制御を教えないと,ただのキチガイニハモノなのにと思います。柔道ってそんな暴力常習者に好き勝手関わらせて良い世界ではないはずです。
 人間の掟は,どうなっているのでしょう。

 さて,明後日は,長男の空手の試合です。彼の実力と周りの新興著しい状況から言えば,今回は,初戦突破も危ういと思っていますが,勝ち負けには拘らない子ですし(トーナメント式なので,負ければそれ以上試合が出来ないのが辛いというだけのようです),急ぐことはないと思っています。
 さあ,思いっきりその世界を楽しんでおいでと彼を送り出すつもりです。
Commented by pon at 2006-10-20 22:21
難しい問題ですよね。このところ、出てきている教師のいじめ問題。新聞の投稿などによると昔もかなりきわどい教師のパワハラがあったようです。幸い私は、なんだかいい先生とそこそこの先生に恵まれ、学校も荒れることなく平穏無事な学生生活を送ってきたので、このところの学校の話を聞くと腰を抜かしそうになるほど驚く、というのが実情です。
自分がしていることが相手を傷つけている、と気づけない子供たちこそ、もしかしたらこの社会の被害者なのかもしれません(その被害者ほ勿論ですが)
でも、実の親に死ぬほどつらいのに助けを求められない、なんて・・・とおもいましたが、私も親に恵まれていたわけではなかったので、何かあってもいわなかったかもしれません。「死ぬ」という選択肢は私にはありませんでしたが。親の愛情に恵まれなかった少女は、絶対幸せにならなければ死ねない、と思っていたのでした。良かったんだか、悪かったんだか。でも、私の場合、先生が救いだったのですよ。そんなこともあるのになぁ~。やっぱり今は大人に余裕がないのでしょうか・・・
Commented by complex_cat at 2006-10-20 22:45
ponさん,私も,本当に幸せな少年期を送りました。
 当時も特定のクラスメートにしつこく絡むやつがいましたが,まぁ,マイナーだったですね。今は,自浄作用の側として動く子供が皆無なので,クラスのほとんどを相手にするようなところがありそうです。今は,まともで一生懸命な先生が潰れる要素が多くて,本当に辛い状況でお気の毒です。
Commented by einnonti-H at 2006-10-20 23:42
激しく同意する内容です。
この様なアーティクルを教育現場で読み上げれば良いのです。

「いじめ」を「傷害」としない言葉に問題あり、かと。
「援助交際」を「売春」と言わない社会風潮と同じです。
まして「いじめ」を定義など、なんと陳腐な教育官庁。
Commented by complex_cat at 2006-10-21 06:46
自然科学系理系人間として同じことを思います。用語定義は,物事の本質を明確にするための,最初の最も重要な作業であり,ターミノロジー(用語法)をいい加減にしたツケだと思います。今更定義というのは,なんとも。
 しかし,昨日の深夜24:00を超えてから,アクセスがユニークユーザーだけで300件近くあったのに驚きました。「イジメ」というのが拾われたのかな。件の事件関連には,TBなど一つも貼ってないのですが。
 イジメ・ブログになってしまったのでしょうか。
Commented by leiji_loka at 2006-10-24 10:33
親として、教員として、地域の大人として、子どもたちの成長をサポートしていくためには、恐ろしく大きな障壁があります。それは、地域社会のみならず、学校現場にも「守ろう。育てよう。」という雰囲気が薄れつつあるということです。現在、原点回帰の動きがありますが、いずれも新語の「定義」によって、言葉が一人歩きしています。実際は、これまで脈々と受け継がれてきた教育の基本、対象をしっかりと見つめて大切なことを適宜伝える。このことを再確認すべき問題であるのに、新しいキーワードによって吹き込まれる風は、「何かやらねば」という焦りと、「何かやった」という形式的な達成感を煽り、教員の眼を曇らせて変化を読み解く力を奪いつつあるように思います。
Commented by complex_cat at 2006-10-24 11:27
leiji_lokaさん,今回の定義の話は,仰るとおり担当行政官の「イジメ」対策の業績としての項目以上の意味はないと思います。統計資料を取るにあたっても定義に関して混乱しているから,定義が必要という話なのでしょう。
 明らかに傷害レベルのものもあるし,いわゆるハラスメント=嫌がらせとして,訴訟対象とも言えるような話もあります。
 教育に関する部分もそうですが,曖昧にしておいて解決を図るという知恵と(イジメのラベル貼りの弊害はよく分かります),曖昧にして先送りにしたツケを後で払うということを使い分けるセンスが,無いと何にせよ無理だと思います。後者は経験主義ですが,それは特定の人間の利益を代弁しているだけだったりしますし,後者は頭でっかちの理屈だけで,現場とは乖離します。
 私は,教育に関しては現場主義で,もの凄くエネルギーをかけている多くの先生の取り組みを援護するシステムを考えるべきと思います。お役人の業績作り,議会で攻められたときの説明責任を果たすための材料作りでは意味がないとおもいます。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by complex_cat | 2006-10-20 21:07 | Cat Kick Dragon Fist | Trackback | Comments(6)

Necology(=猫+Ecology) and Nature Photo Essay, Camera classic, Martial arts & etc. 本サイトはhttp://complexcat.exblog.jp/です。画像はクリックすると大きくなります


by complex_cat
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30