今年の目標
2007年 01月 09日

Canon EOS Kiss Digital X, Nikon Micro-NIKKOR-P・C Auto 1:3.5 f=55mm
昨晩,チコの高速の猫パンチを見る。一呼吸で3発,ユッチの頭にたたき込んだ。写真撮れれば良かったがそれどころではなく,彼は爪を大きく出していないとはいえ(といっても,彼の「爪癖」の悪さは定評があるので),ユッチの眼に当たると拙いので,ワイフと二匹を引き離した。この画は,そのときに撮る物がなかったので,あざとい一枚をマイクロ・ニッコールで撮った一枚。ユッチの手は,どうしても彼を苛立たせるようだ。一緒にじゃれようという誘いで,ナッチは,ルールを理解しておっかけっこに突入してくれるのだが,彼は,乗ってくれない。怒るだけである。公陳丸からの誘いは,理解できていたはずだが,もっぱら仕掛けていたのはチコの方だったから,同じ突っ込み役同士では噛み合わないだけかも知れない。しかし,我が家の耳の尖った子供達は,生まれながらに武術で言うところの「統一体」となっているようにみえる。羨ましい。人間は,二足歩行になって,この奥深い体を最大限に活用する術を忘れてしまっているか,あるいは,まだ,ほとんどの人間が知らないだけなのだ。
空手の解釈で,中国武術を見ると勘違いすると良く言われるが,「隠されていた空手」I,及びIIを読む限り,空手のオリジンである琉球唐手の本質は,誤解を恐れずに書けば,中国武術の戦闘法そのものであった。
レベルによって教えないとかいうのは,今でもあるだろうが,根本,技は,相手を倒すための技であり,もう一つ言えば,白兵専用の軍事技術である。今よりも,武技がひしめき合って,自分の最強を主張せねばならなかった時代にあっては,武技のコア・テクノロジーを,何で真っ正直に,それを本当に必要としているかどうか分からない相手,自分の天敵になるかも知れない相手に教えねばならないかのかということを全然考えないてことがあったら,それ自体が「武」ではないと思う。カムイだって,飯綱落としや霞切りは,絶対の信頼の証として見せる必要がある仲間を得る場面以外には見せなかった。劇画の話じゃんと言うなかれ。作品世界に一種の幻想ではあるがリアリティを持たせるにはこういう部分の積み重ねが必須である。今の時代,大げさとか思うのは勝手であるが,本来,武術とはそういう物である。私レベルだって,不特定多数の眼が集まる場所での練習は師によって禁止されていた。
中国政府は,今でも,最強レベルの人を倒す技術と認定された門派については,国家が真伝の流出については,目を光らせて管理している。素手で人を屠れる技術は白兵戦,コマンド・ミッションにおける根幹的な軍事技術である。日本の場合は、伝承者、達人ら本人の意思により責任管理されている。このことを指して平和ぼけと言われ,未だに軍事色が消えない普通の国にあっては当たり前のことである。近代スポーツ格闘技と同じにして、むやみに相手に教える方が異常であって、先人の人格や努力により,それで、何ら間違いは生じていなかったと思う。公安当局や自衛隊の格闘術ノウハウにおいては,ある程度の管理がなされているだろうが,基本は国ではなく,流派,個人に,ノウハウの管理がゆだねられている日本は,本当に「良い国」だと思う。
あらゆる局面において,空手の真伝は,ほとんど教えられなかったと明言した空手関係の書物は,本書だけである。当時の琉球沖縄という空手を本土に紹介した土地への敬愛や認識,理解が有れば,ある程度は想像できると思うのだが。
空手の型は,正面に構え,近代ボクシングやキックボクシング技術から言えば,隙だらけに顔面を含めた急所を曝している。拳も中心線から遠く外れた脇から出動するような位置に構えられているように見える。寸止めの試合では、ここからの突きしか認められなかったりするが、現代のカラテにおいて,組み手試合は完全に型とは乖離している。そういう意味では,唐手を空手として,別の武道として発達させた結果の近代空手は,自己の内部において,中国武術の套路(型)を,「隙だらけ,無意味,実戦と乖離していて非現実的,自殺技、使えん」と切り捨てたのと同じ視点を持つという自己矛盾を持っている。
一方で,カキエという,古式の剛柔流に伝わるトレーニング方法が太極拳の推手とほとんど同じ術理で練習されていたり,擒拿(合気道的間接取り)により,捕んできた相手を決めたり,つり下げたり,振り回したりして崩して死に体にしたのち,固定して据え物切りにするようにして破壊するという戦闘のプロセスは,誤解を恐れずに書けば驚くほど太極拳に近い。金剛搗捶にそっくりの技が,剛柔流の古式の技の分解にあるのを見たことがある。崩されて死に体となり,膝の上に固定された相手の顔面に,高速で拳が落ちてくる技だ。ちなみに,現代のフルコン・カラテへのアンチテーゼとして型を重視するトレンドに最も影響を与えたと考えられる徹底した型の修得から反射神経や近代スポーツ科学を超えた「統一体」,「ゼロの力」を見いだした宇城憲治氏の型の応用例も,投げ技,崩し技,固め技が多く含まれている。型を使った戦闘方法は、自動的にどうなるのが正しいということは、明らかである。
反射神経やコンビネーション,フットワークテクニックにより相手を制する現代のK-1を代表とするスタイルに変性したカラテが「覇道の拳」(=多少の被弾はあっても,最後に相手を倒す)であるならば,本来のカラテは「王道の拳」(=一発も相手に有効打を打たれることなく相手を倒す)であったということになる。実戦では相手の手にあるのは触れるだけで致命傷を与える刀剣が前提であるから,競技でない,なんでもありの命のやりとりとなれば「覇道の拳」では回避できないリスクが存在する。いや,だからこそ,一方的に自分の方からだけぶん殴ることを理想とした太極拳の戦闘理論は,日本の剣術(?もあるが一応≒剣道)に近いものがあるわけで,極論すれば,人が自分が致命的な破壊力のある刀剣や全ての急所への突き蹴りを受けるリスクを最小化して,相手を倒すマーシャルアーツを考えると,戦闘方法は収斂せざるを得ないということである。
柳生の技などにも,刀を持つ相手の手をを掴んで崩して固定して,首を刺す技がある。乱暴な比較だが,最新のコンバットナイフ戦闘法でも,基本であり,確実な方法である。急所も手足の数も,人類の体の構造や使い方の本道は時空とともに変化したりしていないのだ。
では,本来の唐手が,現代のボクシング,ムエタイ。テクニックなどをフルに飲み込んだフルコン・カラテや総合格闘技に対して,その武技をもって屠ることが出来るか,あるいは屠ることが出うるルールにするためには,掴んでも良いというルールの小変更だけで達成できるのかということである。空手というバーリトゥードゥは,古柔術の戦闘スタイルから派生した試合形式とも言えるが,当時の日本のバーリトゥードゥの中で,唐手もまた,1つの選択であった。最近の流れは,元に戻っているような気がすると,著者は親切にも自らのHPで補足されているが,柔術と総合格闘技とフルコンルールを坩堝に放り込むだけでは,見えてこないものがある。1つは,ルールの絶対的な制約であり,もう一つが,現代のカラテにおいて失伝した唐手のコアの部分であると思われる。
相手が,明確なやられ役のでくの坊として立っている組み手分解においては,らしいコンビネーションの後に,突きを入れようが,これまたらしい崩しの後,決めて(間接を決める必要はない決め方もある)して打ち込もうが,同じである。一発でノックアウトできるパンチとキックを放ち,あるいは自分を地面に転がし締め落とすことが出来,高速で移動することができる相手において,そういった戦闘プロセスが意味をなすかなさないか,なすためにはどのレベルの技の習得が必要かということが,本当の唐手において追求すべき価値の一つではないかと思う。使える方の崩しは分解組み手中であっても明らかに,やらせと違うのであるが,それを読み取れるように行っている写真は,ありがたい。
その鍵は,すべて型の中にある。両手による受けの型の隠された用法と居着かない,一瞬で足を入れ替える踏み換え(スイッチステップ)などの歩法など、運用方法の中に隠されている。スタイルは違うが,アメリカン・フルコンのベースとなったテッコンドーはスイッチステップは初心者からたたき込まれるし,古式テッコンは、太極拳の演舞のような型があったと言われるが失伝している。中国武術では,それがどのような意味があるかということとは遠く離れた状況で教わる基本の歩法としてちゃんと初級の予備知識で出てくるものである。でも,両者は,近代フルコンタクト空手において,絶対的な地位をその戦闘能力において示せたことは、少なくとも公式の大会などでは一度もない。キチガイじみて強い人もおられるのだが,それについては,別の機会に述べたい。
ただ,空手の型の中に隠された部分を読み解く鍵が,高度な化勁(受け崩し,技の無効化)を前提とした崩しや投げや相手を死にたいと貸すためのプロセスであり,それを補足しつつ相手の死角に回る歩法であるという,人を倒す軍事技術=マーシャル・アーツとしての中国武術の本懐と同じであるというのも,当然の帰結である。
私の中国武術の師,曰く,「日本の空手はなぁ。本当に強ええんだ。あれに対向できる武術は,そんじょそこらの技ではない。秘密主義を貫いて国が武術を管理している中国にもほとんどないと言って良いくらい。実際にはあるけど,そう思ってないと間違いだ。」
そんじょそこらの化勁などなんなく打ち破り,発勁を使いこなせる師において,そうなのだから,空手を追求できる道は,魅惑的だと思う。
本書を含む2巻は,奥深い唐手の本来の戦闘法を再構築するために必要なミッシングリンクのピースの一部を提供している。
とある理由でかなりの年月離れていた陳式太極拳。資料を掘り起こして,昔,習得した型のビデオを取り寄せる。20年以上前,風格は,当時空手の型そのものであった笠尾さんの教本が一冊(分解写真そのものの動作が使われているので,劇画「男組」の資料にはしばしば使われていたようだが,池上遼一氏の筆の力で何とかなっていた。他にかの漫画のネタ本は,ブルース・リーのヌンチャク・テクニックの英語教本などだということが,後に分かる),術理も勁道も,誰も理解していなかった頃,私の師の一人である方の兄弟子に当たる方が,カラテ以外の戦闘法を模索中に,真伝でもなんでもない型を学ぶために,1式(一つの技の動作)あたり10万円払った時代とは隔世の感があるが,さすがに,以前習っていた,雙風貫耳が省略されていない小架式の老架式などは出回ってはいないかもしれない。老師の名を書くと系統と私の出自がばれる可能性があるので,省略。
とりよせた自主編集による陳式二路のDVD。陳家溝(村)で,陳式が一時,失伝の危機を迎えたことがある。北京から呼び戻された陳家の継承者は,既に震脚すら出来なくなっていたという。そのため,右足を左足に引き寄せて,それからもう一度持ち上げてという,多様な技の解釈を生んだあの金剛搗捶の動作。あ,やっぱり入っている。前出して持ち上げて,トン。ツアーで,大挙して陳家村に日本人が出掛けた結果だ。陳式では存在しない,様式だけの技と勘違いされている双風貫耳入っているか一路も取り寄せるか。
回り道をした御陰で,勁道は,以前より分かるようになっている。とりあえず,一路,二路の戦闘法の解釈と,これらを体になじませるのを今年の目標の1つとする。私にとっては,読んでおきたかった古典の履修に他ならない。もちろん,武術は情報量であり,十分な指導と句訣なども含めた圧倒的な情報量を得なければならないことも確かであるが,これも,私の個人的な冒険の1つである。
空手の教本の話を書いていて,なぜ太極拳なのか。二路なのか。それは,やっぱり今は秘密なのである。
頃、ヌンチャクをマスターしていらっしゃいましたか??
一度聞いたかもしれない、、、、、、、(笑)
私が高校生の頃、同級生の男の子は、皆、ピュンピュン器用にヌンチャク
を使っていました(というか、披露していました)
ブルース・リーのヌンチャク・テクニックは,4種類振り方を覚えれば,中学生ぐらいでも見かけコピーが出来ます。私は,ブルースリーに憧れて振り回すようなことはしたことがないのです。大学に入ってから,某師に習いました。
実際のヌンチャクは,琉球古武術は,薩摩藩の刀狩りにより,発達したところがあって,強さでは定評のある示現流の太刀に農機具や箒で対抗しようということですので,深い物があります。
琉球古武術の御殿手(うどんでい)の宗家の言葉に「日本刀がどんなに凄くても箒には敵わない」というのがあります。私は剣術は素人なので,どのレベルの剣に対抗できる物か判断が出来ませんが,痺れました。
http://www.bab.co.jp/hiden/video/bcv/bcv43.html
例の蹴りが印象的な息子さんのその後とかも、よろしくお願いします。
コメントのお礼に,上の話とバイオリニストとの関係についてのネタを。
甲野善紀氏と双璧をなすスポーツ科学のトレンドの牽引役となった「統一体」ゼロ・フォースの達人,宇城憲治氏と盲目のバイオリニスト,川畠成道氏との対談が武術雑誌に載っておりました。サンチンの型がバイオリニストには有効かもと云う話と,時間の中に入り込む演奏の話。会話が上手く噛み合っているようには思えませんでしたが,面白い企画かなと。
もうすぐ昇級試験の結果が分かるはずです。
正月,彼も食べて食べて,かなり丸くなりました。鍛えなおさニャ。
あ、以前筋トレの弊害についてお話したことがありますが、甲野氏本家サイト随想録にもはっきり書かれていました。いつ頃の内容だったかは失念してしまい申し訳ないのですが。
長男くんでしたね。昇級試験、受かっているといいですね!
のんびりじっくり身につけられるのはとても良い環境だと思います。

