チコの生活〜チコベェ物語
2007年 11月 11日
ふとした偶然から,ここに閉じこめられるという状況に陥ってから,3日目になる。切っ掛けは中で活動していたクマネズミの気配を追ってのことだったが,今では,鼠を狩る猫という天然記念物級の活動は,既に終了して,脱出口も見つからず,彼には,寝て状況の変化を待つ以外にやることがなかった。閉じこめられた夜は,遊びで転がしていた鼠たちは多少はひもじさを紛らわすのに必要な栄養源となったが,そろそろ拙い状況だと感じ取り,彼の軀は急激に基礎代謝を下げる能力はないが,アイドリングをずっと落としてきている。御陰でなかなかに眠い。再び深い眠りに落ちるとき,だれかの声が聞こえたような気がした。プレイバックされた診察室での電話の応対だった。
「ええ・・・・・ちゃん,はい,3種? ああ5種混合ですね。待ってますよぉ。」
「はいはい,・・・君。ちゃんと散歩させてますよ。散歩できる子はありがたいねぇ。あずかってもストレス溜まりにくいですよ。」
「あ,あれま,c_Cさん,どうしたの。子猫? 居るよ。見に来る? いいよ。今日は午後も,手術入っているけど,その前なら良いよ。」
彼の母親は,野良猫だった。誰にも自分の知っている母親の見姿を伝えることはできないけれど,その匂いや彼女が優しく舐めてくれた舌の感覚や温もり,彼を呼んだあの,甘い声を彼は忘れることはない。彼女は,NGOに保護され避妊手術された後,成猫だから飼い主捜しが難しいだろうということで,判官贔屓の里親の元に優先的に連れて行かれたのだ。彼の方はというと,くっきりした鯖猫の子猫だから,ずっと里親探しには分がよいだろうということで,手術先の獣医さんのケージに入れられて,まだ見ぬ引き取り手を待っていたのだった。彼がサイコ・トラベルしたのはその場面だった。
彼の母親は,彼と別れるとき彼をじっと見つめてくれた。彼も母親を見つめ返した。彼女が伝えたいことは分かっていた。猫には,Good luck! 運任せだからね,頑張れ! 希望を持て! 何とかなるよ,などという自分の運命を受け入れるための儀式のような余計な言葉もない。究極のポジティブシンキングは,ポジティブにも考えないで済ますことだと誰かが言ったが,それなら,彼らに勝てる者は自己啓発セミナーにも居ないだろう。淡々とその運命を受け入れる他に選択肢はなく,その運命の中で,一つの生命として,可能な限りのことをやって生きるということだけが許されている。例え次の瞬間には,このケージ毎,真空室に入れられてその次に訪れるのが無惨な死であったとしても。だから,許されることは生まれて死ぬまでの瞬間,自分らしく,そのままで生きろということであって,母親もそれを教えてきたのだ。
「貴方は,短い間だったけど,私がちゃんと愛したの。そして,貴方も私もこの先は分からない。今,貴方を残して何処にも行きたくないけれど,やがて別れは来るものよ。・・・・さようなら,坊や。」
懺悔や後悔や失望とも無縁の,可能な限りのことをやって彼を産んで育てた母親の,短い圧縮した想いがその眼から彼に伝わった。
彼は啼いた,啼いて彼女を呼んだ。だが,その返事は,もう無かった。
その晩,真っ暗な獣医病院のケージに入れられたまま啼き続けて,疲れ果てた子猫としては,当たり前のように深い眠りに落ちているときに,彼の意識を訪ねてきた不可思議な存在があった。
「自分は契約の保証人だが・・・」と前置きしながら,彼の頭の中にその声は響いた。猫と人との縁が結ばれる,その契約の成立をずっと見守ってきた,とてつもなく古くからの存在だった。「おまえは,」と,その存在は,その先を続けた。
「お前が愛すべき存在が,お前を迎えに来る。私が少しだけ手を動かして彼を助けた。・・・笑って・・・待ちなさい。」
そこまでのリプレイが終わると,彼は一瞬まどろみから覚めてた。依然として彼のいる場所は,油臭いコンクリートの壁に四方を囲まれたままだった。彼は一度欠伸をすると,エネルギー・セーブして状況の変化を待つしかないという意志は揺らがず,再び眠りについた。次の瞬間,今度は彼の意識は彼が生まれる10年以上前にサイコ・トラベルしていた。
その男は,焦っていたのかも知れない。無人島の調査は,予定通りには行かなかった。海面から突出した櫛のような形状のその島は,45度以上の急斜面をシマアザミが埋め尽くし,容易に森林部まで登ることが出来なかった。この極端な植生の単一化は,島に解き放された移入ヤギの仕業だった。アプローチのない斜面を,それでもなんとか苦労して登り切って森林周縁部にとりついたが,その先に続く切り立った稜線部は,人の侵入を容易には許してくれず,結局全体の数分の一の面積を踏査するのが精一杯だった。
諦めて,再び斜面を降下しようと,行きがけにとりついた二本の灌木を手にして,足で足場を探りながら,男が後ろ向きに降りようとしたその時,直径3〜4cmの,もとより頼りなさそうだった幹は,パキッと乾いた音と立てて,あっさり根本から折れた。その男も,もちろん強度に不安を感じていたため,なるべく根本を握ったつもりだったが,その虚しい確保の修正は,全く無意味であった。
男は二本の折れた幹を両手でそれぞれに握ったまま後ろ向きに落ち,場所によっては錘壁を含むその斜面を,一気に高速で後方回転するように落下していった。
落下する先の海岸には,海面ではなく,巨岩が待っていた,
そのとき,「今!」というかけ声が届いた。男は,はっと気づいたように,次の瞬間,自ら海老反りになり,手足を大の字に伸ばした。後ろ向きのバク転風受け身の姿勢をとっていた。大学のサークルで中国武術の研究会を立ち上げるとき,デモでもなんでも新入生の気を引こうと,門派の地味な練習体系とは別に,散々練習したのだ。その目論見に値する機会は最後まで訪れなかったけれど,まだ体が覚えていた。実際の所,全く違うシチュエーションで,その動きが男の絶体絶命のピンチから男を救う役に立つかどうかなど直観が働く余裕すらなかったのだが,イメージどおり,回転が一瞬で遅くなり,気が付くと2cm以上の棘をもつシマアザミを両手で握り,両足で挟み込んでいた。バク転した体は,多少の衝撃はあったものの,手足をおっぴろげた猫のように壁に張り付き,見事に断崖に再び固定されたのだった。
「止まったぁ!」
心の中で叫ぶと,男の眼は,次の瞬間,落下を停止した彼の身を案じるスタッフに注がれたが,あの声の主は,その中の誰でもないことに気が付いていた。しかし,その一瞬感じた違和感は,変性した意識から戻った次の瞬間には,男の意識から消えていた。
再び,次の場面,髭をびんびん震わして眠る彼の意識は,動物病院の診察室の上方にあった。
彼はそのシーンも忘れることはなかった。
ぼーっとケージの外を眺めていた彼の耳に,なぜかどきどき響く足音が近づいてきただった。
「すいませ〜ん,T先生。どの子ですか?」
「この子,雄だよ。見ていってぇ」
彼の視界に男の姿が入った。男は,二人の息子らしき幼児を一緒に連れて,彼のケージが置かれているかなり手狭な診察室に入ってきたのだった。
男が彼を見た瞬間,そう,彼はにっこりと笑ったように男には見えたのだった。
「あれ,この子,お父さんを見て笑ったぞ」
「ねぇ。この子,連れて帰るんだよね。」と父親の突拍子もない表現に構わず,年長の幼児が男に聞いた。
「この子,名前は?」年少の幼児が尋ねると男が言った。
「チコだ。今,決めた。」「え? チコっていうの。」「そうだ,お父さんの新しい息子で,お前達の兄弟だ。先生,このまま連れて帰るね」
「ええと,ワクチンは打ってあるからね。奇特な里親向けの無料サービスだよ。次回の検診は避妊手術の時で良いかな・・・」
彼の息子の一人は,「ボクが君のお母さんになるよ」と幼い言葉で誓ってくれた。彼は,男の耳の尖った養子となり,彼の息子達の義兄弟となった。
新しい養父に出遭った時を思い出して,彼は暗いコンクリートの罠の中で微睡みながらも,あの時と同じように,いつしかにっこり微笑んでいた。
閉ざされて3回目の夜が明けた。彼はふと目をさました。そうだ,自分が何処にいるのか,まだ忘れるわけにはいかない。脱出できるのが明日になるか明後日になるか,ずっと先になるのか分からないが,彼は,少なくともまだ悲観的ではなかった。あの存在が養父の頭の中をノックしてここに連れてくるかも知れないなんて都合の良いことを考えたわけではない。未だに養父と彼の妻と3人の息子達の存在を彼はなぜかちゃんと近くに感じていた。それは,彼がそこで飢えて力尽き最期を迎えることになっても,その瞬間まで彼を包んで放さないだろうと思えたのだ。ただ,あの養父の足に凭れて,或いは,あの子供達の甘酸っぱい髪の毛の匂いを嗅ぎながら眠れたら,多分それだけでもかなり幸せだろうという気分にはなっていた。
そのとき,重く閉ざされたシャッター越しに,あの時からずっと忘れたことのない,足音を聴いたのだった。
実は,養父は毎日仕事に行く前の早朝と,帰宅後の夜間に,彼の名を呼び探していた。前科としての彼のとんでもなく遅延した帰宅事件のときとは違う,びりびり伝わってくる危機感がそうさせたのだ。養父はこの「岩窟」の前を通るときには,毎日人が使っているはずのガレージだと勘違いして,いつも彼の名前を呼んでいなかった。
彼は,いつもの通り養父を呼ぶ声を絞り出していた。体力が思いの外落ちていて,その声には力がなかったが,それに応えて,彼の位置を確かめるべく,ちょっとこちらが恥ずかしくなるような大声で養父が彼の名前を呼んだ。
「聞こえるよ。ここだよ。」と彼は啼き続けた。次の瞬間,あまりにもあっけなく,彼がなすすべもなかったガラス戸が開けられ差し込む朝の光の向こうに,彼の養父が立っていた。
養父は,びっくりしたような丸い目と丸い顔をそこに見つけて叫んだ。
「チコ! おいでっ! 早く!」
流石の彼も,実際,ちょっとばかりびっくりしていた。いや,彼ながらに,誰が助けに来たのか,その答えはそれしかないはずだったのに,いきなり出口が開けられるという状況の変化に一瞬とまどったのだ。しかし,次の瞬間には,身を避けるようにジャンプを促した養父の前に,彼は,窓から飛び出るとフワリと着地した。阿吽の呼吸が,養父もちょっと嬉しかったろう。
そして,畑を突っ切って,彼を振り返りながら先導する養父の後を追って一目散に家路に急いだ。一人と一匹があぜ道ではしゃぐようにして家路に急ぐ。興奮して彼の妻と自分の名前を呼びながら畑の際で転びそうになった養父だったが,悪くない光景だった。猫の癖に犬コロみたいだって? この程度のことは,猫だって出来るのを知らないな。
彼の養父は,養母を勝手口越しに呼ぶと,ロックを開けさせた。一人と一匹はそこからなだれ込んだ。彼がいつもの台所の床の感触を肉球に感じながら見上げると,本当にホッとした表情の養母の顔がそこにあった。この気丈な女性も,自分が行方不明になったことで結構,憔悴したらしい。後で彼女が話していたが,今回だけは,彼女も養父同様帰らぬ彼を待って夜,魘されたらしい。もちろん,悪いことしたなぁというような意識とは彼は無縁であったし,直ぐに忘れるどころか覚えても居ないのが,「老人力」ではない「猫力」だけれど。
数日ぶりの食事は,代謝レベルを落としていたこともあって,彼の軀はあまり沢山は受け付けなかった。朝のパトロールの仕事が終わってから,本気で食事をすることにしようと決めた丁度その時,通園前の5歳の義弟が彼の載るテーブルの側の椅子によじ登り,彼にくっついた。「ふん・・」と彼は,鼻を鳴らしながら彼が戻ってくることを疑うことさえしなかった義弟の匂いを嗅いで挨拶した。
「チコ〜,俺はいつもお前を心配して待ってばかり居るぞ。頼むから,今回みたいなのは勘弁な!」
そんなことをぶつくさ呟く養父には,待つトレーニングが必要なのだと彼は思った。そこいらの人間だったら一秒も精神が保たない状況の中で,生まれたときから,ずっと耐えて待ち続けてきたのは,自分なんだから,と言いたいところであった。例え受け入れがたい運命であってもその運命とある時は必死で死闘を演じ,ある時はダンスをしながら待ち続ける猫に対して,どんな人間も叶いはしないのだ。
簡単に腹拵えを済ませる。養父が小言を言うのにチラと視線を向けると,彼の匂いを嗅ぎまくりに来る深窓姉妹の雌猫2匹を避けながら,彼は,猫ドアから外に飛び出した。テリトリー・チェックを3日もやっていないのだ。彼と同じ眷属の義兄である公陳丸は,既に侵入者とのバトルでは後れをとることが多くなっていて,最近では怪我を負わされるリスクも増えた。庭先周辺のコア・エリア,更にその外にやっかいなやつが侵入してきていないか,情報を集めて,やるべきことをやっておかなければいけないのだ。猫は暇でいいなぁとか云っている奴は,何処の何奴だろう。一度,猫,やらせてやろうか?
もちろん,そんな彼を呼ぶ方法はいつだってある。子供達が,家の前の原っぱや私道で大声で遊び回ることだ。どんなに忙しくても,子供達と遊ぶ時間は,彼のスケジュールにおいて,大抵は割り込みが可能なのだ。
多少は文章なるものが書けるようになったら,糞下手な短編フィクションの下書きとして,添削してもらえることを期待して・・・息子達に。
公陳丸物語と共に,お楽しみ下さい。
ベースとなった失踪劇の顛末はこちら。
後でゆっくり拝読させていただきますが、う~ん、S180やっぱりいいですね♪
ちょっと息子の身に困ったことが降りかかったので,何となくアップしてしまいました。