あるLong-tailed Userの戯言
2008年 01月 20日
いや,少々ロマンティシズムが過ぎますね。功利的に考えれば,ジョブスが持ち歩く気になるNoteを作れば,彼と同様の考え方をする一定のニーズが購入してくれることかと思います。他の同社の製品を圧迫することもない,良い商売になるいうことでしょう。封筒から取り出すプレゼンをしたときの彼の笑みを見ていると,そういう気がします。
彼の場合,Appleという会社を経営する圧倒的な広告塔でもあります。IBPのパソコン部門が中国に買われたことを見ても,他の分野にも影響を与えるようなカリスマ経営者自身が,この世界では,ほとんど意味をなさなくなっているのにもかかわらずです。彼が,プレゼンで見せたようなそっと微笑むような笑顔で持ち歩く可能性のあるモデルだということだけで,十分訴求するニーズがあるということだと思います。
日本の標準的なPC市場におけるユーザーが軽量ノートを購入する場合の行動を考えてみましょう。 CPUやメモリ,HDのバリエーション,端子の数,カタログ・スペックのカテゴリーが並んで,重さが1.5kg未満。これで,イメージが出来て,後はそれまで購入経験があるブランドやCM,廻りで友人が使っているか,カカクコムの掲示板を読む。それで購入候補に挙がるマシンが決まる。Appleが作ろうという世界は,その土俵の上ではないものでなければ,ならないのです。常に。本当の意味の産みの苦しみを経験していないWin機を作ってきたメーカーとは異なるという矜持。金融業界のサーバーとして作られ,今のOSXの根幹技術となって戻ってきたBlack Boxであった NeXTも,アニメーション映画の価値を変えたPixerも,iPodも,「それまで存在していそうで,非なるもの」を作り出そうという彼の矜持が生み出したものであると私は思います。
このAirがそのマシンだというわけではありません。しかし,そういうモノを生み出すべく仕事をしている人間がもし持ち歩くとしたら,とりあえず,他のマシンに比べれば間違いなく整合性があります。CPUの速度だって,彼が高速レンダリングを必要とするでしょうか。電池寿命だって,彼が自らのマックをAC電源でないところで起動させるには十二分でしょう。交換電池を持ち歩いて,仕事する? 光学ドライブ? ブルーレイだって,今の大容量データ配信の進行状況から考えると,一瞬にして無意味化する時代が来る可能性があります。機械動作部品が内蔵されているのってクールじゃないでしょう? 可搬ノートに必須の対衝撃に供えるためのコストは,DVDやCDより圧倒的にかかるわけだし。システムインストールや復旧に関して,数世代先のOSのパッケージの中にあるのは,ブルーレイ・ディスクだと思われますか?
道具として購入しようという人たちからの批判については,分かります。これは,Apple製品同士の比較で,競争力に疑問があるということなのでしょう。なんて中途半端なスペック。うん,そういうのAppleは得意ですね〜。まあ,こんなのは記念モデルなんで,性能対価格やニッチェに首をかしげる必要もありませんが,こんなんもありました。デザイン今一だけどこんなんも。パソコン以外では復活が噂されるNewtonなどなど。モジュールメーカーを統括して一つのコストパフォーマンスの良い商品を作っているだけでAppleが生き残れるはずがありません。
信じられないかも知れませんが,10インチのモノクロCRTの着いたSE/30にHPのこれまた,モノクロのインクジェット・プリンターが着いて,100万を超えていた頃,大学にぽつぽつ購入者が現れ始めたのです。そしてその流れは,現在でもメジャーな流れにはなりません。一時期経営がピンチになったときに,統計解析ソフトの分野から多くのプロバイダーが撤退しました。それでもAppleを使い続けてきて,ときどきWin PCで作業をするたびに思います。
Appleほど,失態を何度も演じ,失敗製品も沢山出し続けてきたメーカーはないと思います。それでも,モジュール組立メーカーが失敗するのとは違うようです。結果的にAppleもJobsも生き残っています。
Appleの明日のための布石になる,そんなマシンを作れと言われたら,あなただったら何を作りますか。有機液晶はまだ早いけど,折りたたんだ紙束のようなパソコン。ともかく持ち歩くために負担にならないように削るとしても,画面サイズはノートの大きさであって良いから,そして薄さ極小。そういったリアルノートを本気で作ろうとしているのではないかと思います。パソコン黎明期,8インチのディスクをパソコン塾に二つ折りにしてもって来た少年の話がありましたが(良くぞ畳めたものだ),彼の行為が出来て当たり前と言えるような仕様のノートが,あれば,私は欲しい。道は遠いけれど。持ち歩くパソコンが理想なら,高細密TFTを持ったPDAにすればというのは安直です。携帯やビジネスフォン,iPhoneだってあります。それで本当に宜しいのなら,パソコン用のTFTはなぜ,どんどん大型化しているのでしょうか。今時17インチどころか19インチのセットでも見劣りします。そして,落っことしたり土木現場で砂被ったりしても動くノートだと言っている石版のような道具は別のところが作ればいいのです。
Appleはモジュール組立メーカーになった瞬間に役割を終えます。その系統樹上では,絶滅予定種にしかなりません。断続平衡理論的に,リープした別の存在にならない限り生存できません。そして,そういったリープのタメには,ぼっこちゃんみたいなで来損ないも沢山生まれるでしょう。それは絶滅するかも知れないし,派生した形質を持つことで生き残るかも知れませんが,少なくとも,小さな見かけ有利な変異を積み重ねるような改良では競争種に打ち勝つことどころか,共存することすら敵わないでしょう。薄く軽くする競争なら,負けない自身のあるメーカーなどごまんといます。しかも,過去,競争種は,法的に打ち勝ち,「ユーザーの利益」という錦の御旗の御陰で,進化した成功者のDNAの成分のうち,自分に利益になる部分を丸ごとコピーできたのですから(Winが存在していること自身が,その結果でしょう)。コピーされてもなおかつ打ち勝つ仕掛けも同時に必要です。今時,音楽をネットからダウンロードして聴くだけなら,携帯電話でも良いわけで,実際そういうスタイルのユーザーなどごまんといるわけです。同じことが出来るなら,それで良いやというユーザーを相手に商売したくても出来ない。それが,Appleの宿命です。そして,そういうユーザーを対象にしたら,数多のPCモデルの大河の中に飲み込まれて消えていくでしょう。勿論,そういったユーザーをAppleは一度も無碍にしたことはありません。門戸はいつだって開かれています。
画像は,電池が既に死んで,起動しない私にとっての初代PowerBook180です。埃も拭かずそのまま撮影。ノートはキーボードが埃まみれにならないという素晴らしい機能がありますね。
SE/30と違ってノートとして,どこでも持ち歩ける上に,モノクロ階調表示が出来たので感動したものです。今でも,このマシンに火を入れて,当時使っていたヨーロッパのアナグマの研究者が作ったFMテレメトリーのアプリを動かしてみたくなります。Appleとのごくごく個人的な関係は,まぁ,私自身がAppleにおける長く伸びたロングテールの尻尾の先みたいな存在といったところです。
いずれMacを使ってブログを書くつもりなので時々遊んでみますがこの機種の能力の高さにまだまだ付いていけないのが現状です。
いくらでも遊べるし遊びたいのですが頭の固い私は突き放された感があります。折りたたんだ紙束のようなパソコン・・すごいですね。