犬猫と共生できない世界
2008年 04月 10日
どんな場合も,正しい行為は,絶望的な戦いに見える。だから,そこで自分自身ではない,チベットであれ,犬であれ猫であれ,何者かのために行動する人たちを,私は尊敬する。とりあえず,相手のやり方が,彼らの立場からは正しいとか,どう見ても間違っているとかいうのはどうでも良くて,虐殺を止めて・・・話はそこから。
再来週の日曜日,そういった人たちが集まる会の面前でスピーチすることが決まって,今から何を話そうか悩んでいる。
このブログにあるとおりなら,「平和」の祭典のために一挙に50万匹の猫が捕殺処分されている。日本だって「年間」40〜50万匹の猫が捕殺処分されているから偉そうなことは言えないという人が居る。人殺し
署名が始まっているが,そんなもので止められない,どこに出すのてな話をするのは簡単だ。最も戦略的に可能性のあるところはどこだろう,どうやって話を持って行こうという考え方に立つことはない。ハイハイお利口さん。日本が危うくなれば,金持って国外脱出すればいいと考える輩が増えれば,まぁ,この国も何もない状態で潰れていくだろう。香港の金持ちみたいに,別の国で生活できるようにしておいて舞い戻って商売している。賢い。でも,行動多様性の意味とリスクヘッジ効果が理解できない輩が増えると,パニックになったときにとても危険だなと思う。
私は,既成観念を挑発する中途ハンパで卑怯な相対主義者が何を言っても,目の前の虐殺を止めよう,1匹でも救おうとしている人の行為を賞賛する。だって,本来,俯瞰してみれば,人類なんて居ても居なくても同じどころか,多くの生命体にとっては,消滅してくれたら万々歳というイキモノが人類なのだし,大多数の人間にとって大多数の人間の存在などに,意味はないのだから,ことさら人の価値下げや行為の無意味さを指摘すること自身が,自己矛盾であると思う。人類がといってぴんと来なかったら,日本人でも,自分自身でもいい。
その迷惑かけっぱなしの困ったちゃんの裁判があったとして,弁護側に廻って何とか,まぁ居ても良いんじゃないの,居ないと僕たちは困るなぁはははって弁論してくれるであろう有機体を考えると,HIVやヒトインフルエンザなどの種特異的な病原生物を除けば,イヌとネコの代表ぐらいであろう。
北京の話は,未確認だが叩き殺すなんてことをやって,生きたまま皮剥いでるとかいう話もあるけど,流石にそこまで面倒なことをやっているのか,或いは趣味なのか,判別つかないけれど,文字通りの虐殺も二酸化炭素中毒死も同じとは言え,ある意味,粛清という名のジュノサイドの文化,かの国のすさまじさを感じる。この猫ジェノサイドの前に,犬ジェノサイドをやっているらしい。バルセロナの時には,野良犬問題が同様にあったが,もちろん,邪魔だから北京中の野良犬・野良猫を処分するというような発想は,他の国でオリンピックやっても,出てこない気がする。この発想が出来ること自体に,戦慄する。
ここのところ,猫受難のニュースが多く,同じ眷属を家族にしている私はとても辛い気分になる。思いっきり誰かをぶん殴って済むような話なら,まだ良いのだけれど。いろいろ見ていると,この問題自身を象徴的に表している「犬の餓死」アートの話もあり,それを更にリアルに救いようもなく悲惨なものにした行為もあるらしい。コスタリカといえば,軍隊を持たない,生物多様性の高いパラダイスみたいな印象を持つ人もいると思うが,体制や主義とは関係なく飯綱落としをかけたくなる輩はいる。霞切りだとまた血で汚れるから。
検索で入ってくる情報の多くが,犬猫という人類の最も素敵な伴侶に対して,経済もテクノロジーも進んでいるはずの現代社会が行っている暗く冷たい愚行の積み重ねである。
このしぐさをまれに見ます。C_Cさんのナッチだったのかしら・・・
「犬の餓死」アートの話しは聞きました。
生きているモノに対する倫理も何もない、吐き気がしました。
韓国の食用の犬も・・・・私には理解できません。
基本的に,生命が理解できない人が,素材の興味だけで生き物屁の興味が暴走しているだけのように見えます。
生き物音痴の人は良く見かけますが,別にイヌやネコを飼おうとか思ったりしないわけで人それぞれ,何ら問題ありません。ところが,そういう型の中に,自分の好き勝手な思いだけで,なんらかの素材,材料として興味が暴走して,身勝手な扱いかたをする行動のように私には感じます。何十匹もめちゃくちゃな飼い方をするアニマル・ホルダーなども,決して犬猫が好きなのではなく,ゴミを集めたりするのと同じで,基本はそういう人のように私には見えます。